とはすでに人間のより高い性質を示してゐる。虚榮心といふのは自分があるよりも以上のものであることを示さうする人間的なパッションである。それは假裝に過ぎないかも知れない。けれども一生假裝し通した者において、その人の本性と假性とを區別することは不可能に近いであらう。道徳もまたフィクションではないか。それは不換紙幣に對する金貨ほどの意味をもつてゐる。

 人間が虚榮的であるといふことは人間が社會的であることを示してゐる。つまり社會もフィクションの上に成立してゐる。從つて社會においては信用がすべてである。あらゆるフィクションが虚榮であるといふのではない。フィクションによつて生活する人間が虚榮的であり得るのである。

 文明の進歩といふのは人間の生活がより多くフィクションの上に築かれることであるとすれば、文明の進歩と共に虚榮は日常茶飯事となる。そして英雄的な悲劇もまた少くなる。

 フィクションであるものを自然的と思はれるものにするのは習慣の力である。むしろ習慣的になることによつてフィクションは初めてフィクションの意味を有するに至るのである。かくしてただ單に虚榮であるものは未だフィクションとはいはれない。それ故にフィクションは虚榮であるにしても、すでにフィクションとして妥當する以上、單なる虚榮であることからより高い人間的なものとなつてゐる。習慣はすでにかやうなより高い人間性を現はしてゐる。習慣は單に自然的なものでなく、すでに知性的なものの一つの形である。

 すべての人間の惡は孤獨であることができないところから生ずる。

 いかにして虚榮をなくすることができるか。虚無に歸することによつて。それとも虚無の實在性を證明することによつて。言ひ換へると、創造によつて。創造的な生活のみが虚榮を知らない。創造といふのはフィクションを作ることである、フィクションの實在性を證明することである。

 虚榮は最も多くの場合消費と結び附いてゐる。

 人に氣に入らんがために、或ひは他の者に對して自分を快きものにせんがために虚榮的であることは、ジューベールのいつた如く、すでに「半分の徳」である。すべての虚榮はこの半分の徳のために許されてゐる。虚榮を排することはそれ自身ひとつの虚榮であり得るのみでなく、心のやさしさの敵である傲慢に堕してゐることがしばしばである。

 その理想國から藝術家を追放しようとしたプラトンには一つの智慧がある。しかし自己の生活について眞の藝術家であるといふことは、人間の立場において虚榮を驅逐するための最高のものである。

 虚榮は生活において創造から區別されるディレッタンティズムである。虚榮を藝術におけるディレッタンティズムに比して考へる者は、虚榮の適切な處理法を發見し得るであらう。
[#改ページ]

    名譽心について

 名譽心と虚榮心とほど混同され易いものはない。しかも兩者ほど區別の必要なものはない。この二つのものを區別することが人生についての智慧の少くとも半分であるとさへいふことができるであらう。名譽心が虚榮心と誤解されることは甚だ多い、しかしまた名譽心は極めて容易に虚榮心に變ずるものである。個々の場合について兩者を區別するには良い眼をもたねばならぬ。

 人生に對してどんなに嚴格な人間も名譽心を抛棄しないであらう。ストイックといふのはむしろ名譽心と虚榮心とを區別して、後者に誘惑されない者のことである。その區別ができない場合、ストイックといつても一つの虚榮に過ぎぬ。

 虚榮心はまづ社會を對象としてゐる。しかるに名譽心はまづ自己を對象とする。虚榮心が對世間的であるのに反して、名譽心は自己の品位についての自覺である。
 すべてのストイックは本質的に個人主義者である。彼のストイシズムが自己の品位についての自覺にもとづく場合、彼は善き意味における個人主義者であり、そしてそれが虚榮の一種である場合、彼は惡しき意味における個人主義者に過ぎぬ。ストイシズムの價値も限界も、それが本質的に個人主義であるところにある。ストイシズムは自己のものである諸情念を自己とは關はりのない自然物の如く見ることによつて制御するのであるが、それによつて同時に自己或ひは人格といふ抽象的なものを確立した。この抽象的なものに對する情熱がその道徳の本質をなしてゐる。

 名譽心と個人意識とは不可分である。ただ人間だけが名譽心をもつてゐるといはれるのも、人間においては動物においてよりも遙かに多く個性が分化してゐることに關係するであらう。名譽心は個人意識にとつていはば構成的である。個人であらうとすること、それが人間の最深の、また最高の名譽心である。
 名譽心も、虚榮心と同樣、社會に向つてゐるといはれるであらう。しかしそれにしても、虚榮心においては相手は「世間」といふもの、詳しくいふと、甲でもなく乙でもないと同時に甲でもあり乙でもあるところの「ひと」、アノニムな「ひと」であるのに反して、名譽心においては相手は甲であり或ひは乙であり、それぞれの人間が個人としての獨自性を失はないでゐるところの社會である。虚榮心は本質的にアノニムである。
 虚榮心の虜になるとき、人間は自己を失ひ、個人の獨自性の意識を失ふのがつねである。そのとき彼はアノニムな「ひと」を對象とすることによつて彼自身アノニムな「ひと」となり、虚無に歸する。しかるに名譽心においては、それが虚榮心に變ずることなく眞に名譽心にとどまつてゐる限り、人間は自己と自己の獨自性の自覺に立つのでなければならぬ。
 ひとは何よりも多く虚榮心から模倣し、流行に身を委せる。流行はアノニムなものである。それだから名譽心をもつてゐる人間が最も嫌ふのは流行の模倣である。名譽心といふのはすべてアノニムなものに對する戰ひである。

 發生的にいふと、四足で地に這ふことをやめたとき人間には名譽心が生じた。彼が直立して歩行するやうになつたといふことは、彼の名譽心の最初の、最大の行爲であつた。
 直立することによつて人間は抽象的な存在になつた。そのとき彼には手といふもの、このあらゆる器官のうち最も抽象的な器官が出來た、それは同時に彼にとつて抽象的な思考が可能になつたことである、等々、――そして名譽心といふのはすべて抽象的なものに對する情熱である。
 抽象的なものに對する情熱をもつてゐるかどうかが名譽心にとつて基準である。かくして世の中において名譽心から出たもののやうにいはれてゐることも實は虚榮心にもとづくものが如何に多いであらう。

 抽象的な存在になつた人間はもはや環境と直接に融合して生きることができず、むしろ環境に對立し、これと戰ふことによつて生きねばならぬ。――名譽心といふのはあらゆる意味における戰士のこころである。騎士道とか武士道とかにおいて名譽心が根本的な徳と考へられたのもこれに關聯してゐる。

 たとへば、名を惜しむといふ。名といふのは抽象的なものである。もしそれが抽象的なものでないなら、そこに名譽心はなく、虚榮心があるだけである。いま世間の評判といふものはアノニムなものである。從つて評判を氣にすることは名譽心でなくて虚榮心に屬してゐる。アノニムなものと抽象的なものとは同じではない。兩者を區別することが大切である。
 すべての名譽心は何等かの仕方で永遠を考へてゐる。この永遠といふものは抽象的なものである。たとへば名を惜しむといふ場合、名は個人の品位の意識であり、しかもそれは抽象的なものとしての永遠に關係附けられてゐる。虚榮心はしかるに時間的なものの最も時間的なものである。
 抽象的なものに對する情熱によつて個人といふ最も現實的なものの意識が成立する、――これが人間の存在の祕密である。たとへば人類といふのは抽象的なものである。ところでこの人類といふ抽象的なものに對する情熱なしには人間は眞の個人となることができぬ。

 名譽心の抽象性のうちにその眞理と同時にその虚僞がある。

 名譽心において滅ぶ者は抽象的なものにおいて滅ぶ者であり、そしてこの抽象的なものにおいて滅び得るといふことは人間に固有なことであり、そのことが彼の名譽心に屬してゐる。
 名譽心は自己意識と不可分のものであるが、自己といつてもこの場合抽象的なものである。從つて名譽心は自己にとどまることなく、絶えず外に向つて、社會に對して出てゆく。そこに名譽心の矛盾がある。

 名譽心は白日のうちになければならない。だが白日とは何か。抽象的な空氣である。
 名譽心はアノニムな社會を相手にしてゐるのではない。しかしながらそれはなほ抽象的な甲、抽象的な乙、つまり抽象的な社會を相手にしてゐるのである。

 愛は具體的なものに對してのほか動かない。この點において愛は名譽心と對蹠的である。愛は謙虚であることを求め、そして名譽心は最もしばしば傲慢である。

 宗教の祕密は永遠とか人類とかいふ抽象的なものがそこでは最も具體的なものであるといふことにある。宗教こそ名譽心の限界を明瞭にするものである。

 名譽心は抽象的なものであるにしても、昔の社會は今の社會ほど抽象的なものでなかつた故に、名譽心はなほ根柢のあるものであつた。しかるに今日社會が抽象的なものになるに從つて名譽心もまたますます抽象的なものになつてゐる。ゲマインシャフト的な具體的な社會においては抽象的な情熱であるところの名譽心は一つの大きな徳であることができた。ゲゼルシャフト的な抽象的な社會においてはこのやうな名譽心は根柢のないものにされ、虚榮心と名譽心との區別も見分け難いものになつてゐる。
[#改ページ]

    怒について

 Ira Dei(神の怒)、――キリスト教の文獻を見るたびにつねに考へさせられるのはこれである。なんといふ恐しい思想であらう。またなんといふ深い思想であらう。
 神の怒はいつ現はれるのであるか、――正義の蹂躪された時である。怒の神は正義の神である。
 神の怒はいかに現はれるのであるか、――天變地異においてであるか、豫言者の怒においてであるか、それとも大衆の怒においてであるか。神の怒を思へ!

 しかし正義とは何か。怒る神は隱れたる神である。正義の法則と考へられるやうになつたとき、人間にとつて神の怒は忘れられてしまつた。怒は啓示の一つの形式である。怒る神は法則の神ではない。
 怒る神にはデモーニッシュなところがなければならぬ。神はもとデモーニッシュであつたのである。しかるに今では神は人間的にされてゐる、デーモンもまた人間的なものにされてゐる。ヒューマニズムといふのは怒を知らないことであらうか。さうだとしたなら、今日ヒューマニズムにどれほどの意味があるであらうか。
 愛の神は人間を人間的にした。それが愛の意味である。しかるに世界が人間的に、餘りに人間的になつたとき必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。
 今日、愛については誰も語つてゐる。誰が怒について眞劍に語らうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るといふことは今日の人間が無性格であるといふことのしるしである。
 切に義人を思ふ。義人とは何か、――怒ることを知れる者である。

 今日、怒の倫理的意味ほど多く忘れられてゐるものはない。怒はただ避くべきものであるかのやうに考へられてゐる。しかしながら、もし何物かがあらゆる場合に避くべきであるとすれば、それは憎みであつて怒ではない。憎みも怒から直接に發した場合には意味をもつことができる、つまり怒は憎みの倫理性を基礎附け得るやうなものである。怒と憎みとは本質的に異るにも拘らず極めてしばしば混同されてゐる、――怒の意味が忘れられてゐる證據であるといへよう。
 怒はより深いものである。怒は憎みの直接の原因となることができるのに反し、憎みはただ附帶的にしか怒の原因となることができぬ。

 すべての怒は突發的である。そのことは怒の純粹性或ひは單純性を示してゐる。しかるに憎みは殆どすべて習慣的なものであり、習慣的に永續する憎みのみが憎みと考へられるほどである。憎みの習慣性がその自然性を現はすとすれば、怒の突
前へ 次へ
全15ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング