的なものであるためである。流行のこの力は、それが習慣と相反する方向のものであるといふことに基いてゐる。流行は最大の適應力を有するといはれる人間に特徴的である。習慣が自然的なものであるのに對して、流行は知性的なものであるとさへ考へることができるであらう。
習慣は自己による自己の模倣として自己の自己に對する適應であると同時に、自己の環境に對する適應である。流行は環境の模倣として自己の環境に對する適應から生ずるものであるが、流行にも自己が自己を模倣するといふところがあるであらう。我々が流行に從ふのは、何か自己に媚びるものがあるからである。ただ、流行が形としては不安定であり、流行には形がないともいはれるのに對して、習慣は形として安定してゐる。しかるに習慣が形として安定してゐるといふことは、習慣が技術であることを意味してゐる。その形は技術的に出來てくるものである。ところが流行にはかやうな技術的な能動性が缺けてゐる。
一つの情念を支配し得るのは理性でなくて他の情念であるといはれる。しかし實をいふと、習慣こそ情念を支配し得るものである。一つの情念を支配し得るのは理性でなくて他の情念であるといはれるやうな、その情念の力はどこにあるのであるか。それは單に情念のうちにあるのでなく、むしろ情念が習慣になつてゐるところにある。私が恐れるのは彼の憎みではなくて、私に對する彼の憎みが習慣になつてゐるといふことである。習慣に形作られるのでなければ情念も力がない。一つの習慣は他の習慣を作ることによつて破られる。習慣を支配し得るのは理性でなくて他の習慣である。言ひ換へると、一つの形を眞に克服し得るものは他の形である。流行も習慣になるまでは不安定な力に過ぎない。情念はそれ自身としては形の具はらぬものであり、習慣に對する情念の無力もそこにある。一つの情念が他の情念を支配し得るのも、知性が加はることによつて作られる秩序の力に基いてゐる。情念は形の具はらぬものとして自然的なものと考へられる。情念に對する形の支配は自然に對する精神の支配である。習慣も形として單なる自然でなく、すでに精神である。
形を單に空間的な形としてしか、從つて物質的な形としてしか表象し得ないといふのは近代の機械的な悟性のことである。むしろ精神こそ形である。ギリシアの古典的哲學は物質は無限定な質料であつて精神は形相であると考へた。現代の生の哲學は逆に精神的生命そのものを無限定な流動の如く考へてゐる。この點において生の哲學も形に關する近代の機械的な考へ方に影響されてゐる。しかし精神を形相と考へたギリシア哲學は形相をなほ空間的に表象した。東洋の傳統的文化は習慣の文化であるといふことができる。習慣が自然であるやうに、東洋文化の根柢にあるのは或る自然である。また習慣が單なる自然でなく文化であるやうに、束洋的自然は同時に文化の意味をもつてゐる。文化主義的な西洋において形が空間的に表象されたのに對して、自然主義的な東洋の文化は却つて精神の眞に精神的な形を追究した。しかしすでに形といふ以上、それは純粹な精神であることができるか。習慣が自然と見られるやうに、精神の形といつても同時に自然の意味がなければならぬ。習慣は單なる精神でも單なる身體でもない具體的な生命の内的な法則である。習慣は純粹に精神的といはれる活動のうちにも見出される自然的なものである。
思惟の範疇といふものをヒュームが習慣から説明したのは、現代の認識論の批評するやうに、それほど笑ふべきことであるかどうか、私は知らない。範疇の單に論理的な意味でなくてその存在論的な意味を考へようとする場合、それを習慣から説明するよりも一層適切に説明する仕方があるかどうか、私は知らない。ただその際、習慣を單なる經驗から生ずるもののやうに考へる機械的な見方を排することが必要である。經驗論は機械論であることによつて間違つてゐる。經驗の反覆といふことは習慣の本質の説明にとつてつねに不十分である。石はたとひ百萬遍同じ方向に同じ速度で投げられたにしてもそのために習慣を得ることがない、習慣は生命の内的な傾向に屬してゐる。經驗論に反對する先驗論は普通に、經驗を習慣の影響の全くない感覺と同一視してゐる。感覺を喚び起す作用のうちに現はれる習慣から影響されないやうな知識の「内容」といふものが存在するであらうか。習慣は思惟のうちにも作用する。
社會的習慣としての慣習が道徳であり、權威をもつてゐるのは、單にそれが社會的なものであるといふことに依るのではなく、却つてそれが表現的なものとして形であることに基くのである。如何なる形もつねに超越的な意味をもつてゐる。形を作るといふ生命に本質的な作用は生命に内在する超越的傾向を示してゐる。しかし形を作ることは同時に生命が自己を否定することである。生命は形によつて生き、形において死ぬる。生命は習慣によつて生き、習慣において死ぬる。死は習慣の極限である。
習慣を自由になし得る者は人生において多くのことを爲し得る。習慣は技術的なものである故に自由にすることができる。もとよりたいていの習慣は無意識的な技術であるが、これを意識的に技術的に自由にするところに道徳がある。修養といふものはかやうな技術である。もし習慣がただ自然であるならば、習慣が道徳であるとはいひ得ないであらう。すべての道徳には技術的なものがあるといふことを理解することが大切である。習慣は我々に最も手近かなもの、我々の力のうちにある手段である。
習慣が技術であるやうに、すべての技術は習慣的になることによつて眞に技術であることができる。どのやうな天才も習慣によるのでなければ何事も成就し得ない。
從來修養といはれるものは道具時代の社會における道徳的形成の方法である。この時代の社會は有機的で、限定されたものであつた。しかるに今日では道具時代から機械時代に變り、我々の生活の環境も全く違つたものになつてゐる。そのために道徳においても修養といふものだけでは不十分になつた。道具の技術に比して機械の技術は習慣に依存することが少く、知識に依存することが多いやうに、今日では道徳においても知識が特に重要になつてゐるのである。しかしまた道徳は有機的な身體を離れ得るものでなく、そして知性のうちにも習慣が働くといふことに注意しなければならぬ。
デカダンスは情念の不定な過剩であるのではない。デカダンスは情念の特殊な習慣である。人間の行爲が技術的であるところにデカダンスの根源がある。情念が習慣的になり、技術的になるところからデカダンスが生ずる。自然的な情念の爆發はむしろ習慣を破るものであり、デカダンスとは反對のものである。すべての習慣には何等かデカダンスの臭が感じられないであらうか。習慣によつて我々が死ぬるといふのは、習慣がデカダンスになるためであつて、習慣が靜止であるためではない。
習慣によつて我々は自由になると共に習慣によつて我々は束縛される。しかし習慣において恐るべきものは、それが我々を束縛することであるよりも、習慣のうちにデカダンスが含まれることである。
あのモラリストたちは世の中にいかに多くの奇怪な習慣が存在するかについてつねに語つてゐる。そのことはいかに習慣がデカダンスに陷り易いかを示すものである。多くの奇怪な藝術が存在するやうに多くの奇怪な習慣が存在する。しかるにそのことはまた習慣が藝術と同樣、構想力に屬することを示すであらう。
習慣に對して流行はより知性的であるといふことができる。流行には同じやうなデカダンスがないであらう。そこに流行の生命的價値がある。しかしながら流行そのものがデカダンスになる場合、それは最も恐るべきものである。流行は不安定で、それを支へる形といふものがないから。流行は直接に虚無につらなる故に、そのデカダンスには底がない。
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虚榮について
Vanitati creatura subjecta est etiam nolens.――「造られたるものの虚無に服せしは、己が願によるにあらず、服せしめ給ひし者によるなり。」ロマ書第八章廿節。
虚榮は人間的自然における最も普遍的な且つ最も固有な性質である。虚榮は人間の存在そのものである。人間は虚榮によつて生きてゐる。虚榮はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである。
虚榮によつて生きる人間の生活は實體のないものである。言ひ換へると、人間の生活はフィクショナルなものである。それは藝術的意味においてもさうである。といふのは、つまり人生はフィクション(小説)である。だからどのやうな人でも一つだけは小説を書くことができる。普通の人間と藝術家との差異は、ただ一つしか小説を書くことができないか、それとも種々の小説を書くことができるかといふ點にあるといひ得るであらう。
人生がフィクションであるといふことは、それが何等の實在性を有しないといふことではない。ただその實在性は物的實在性と同じでなく、むしろ小説の實在性とほぼ同じものである。即ち實體のないものが如何にして實在的であり得るかといふことが人生において、小説においてと同樣、根本問題である。
人生はフィクショナルなものとして元來ただ可能的なものである。その現實性は我々の生活そのものによつて初めて證明されねばならぬ。
いかなる作家が神や動物についてフィクションを書かうとしたであらうか。神や動物は、人間のパッションが彼等のうちに移入された限りにおいてのみ、フィクションの對象となることができたのである。ひとり人間の生活のみがフィクショナルなものである。人間は小説的動物であると定義することができるであらう。
自然は藝術を模倣するといふのはよく知られた言葉である。けれども藝術を模倣するのは固有な意味においては自然のうち人間のみである。人間が小説を模倣しまた模倣し得るのは、人間が本性上小説的なものであるからでなければならぬ。人間は人間的[#「人間的」に傍点]になり始める否や、自己と自己の生活を小説化し始める。
すべての人間的[#「人間的」に傍点]といはれるパッションはヴァニティから生れる。人間のあらゆるパッションは人間的[#「人間的」に傍点]であるが、假に人間に動物的[#「動物的」に傍点]なパッションがあるとしても、それが直ちにヴァニティにとらへられ得るところに人間的なものが認められる。
ヴァニティはいはばその實體に從つて考へると虚無である。ひとびとが虚榮といつてゐるものはいはばその現象に過ぎない。人間的なすべてのパッションは虚無から生れ、その現象において虚榮的である。人生の實在性を證明しようとする者は虚無の實在性を證明しなければならぬ。あらゆる人間的創造はかやうにして虚無の實在性を證明するためのものである。
「虚榮をあまり全部自分のうちにたくはへ、そしてそれに酷使されることにならないやうに、それに對して割れ目を開いておくのが宜い。いはば毎日の排水が必要なのである。」かやうにいつたジューベールは常識家であつた。しかしこの常識には賢明な處世法が示されてゐる。虚榮によつて滅亡しないために、人間はその日々の生活において、あらゆる小事について、虚榮的であることが必要である。
この點において英雄は例外である。英雄はその最後によつて、つまり滅亡によつて自己を證明する。喜劇の主人公には英雄がない、英雄はただ悲劇の主人公であることができる。
人間は虚榮によつて生きるといふことこそ、彼の生活にとつて智慧が必要であることを示すものである。人生の智慧はすべて虚無に到らなければならぬ。
紙幣はフィクショナルなものである。しかしまた金貨もフィクショナルなものである。けれども紙幣と金貨との間には差別が考へられる。世の中には不換紙幣といふものもあるのである。すべてが虚榮である人生において智慧と呼ばれるものは金貨と紙幣とを、特に不換紙幣とを區別する判斷力である。尤も金貨もそれ自身フィクショナルなものではない。
しかし人間が虚榮的であるといふこ
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