その原罪説を背景にして考へると、容易に理解することができるわけであるが、もしそのやうな原罪の觀念が存しないか或ひは失はれたとすれば如何であらう。すでにペトラルカの如きルネサンスのヒューマニストは原罪を原罪としてでなくむしろ病氣として體驗した。ニーチェはもちろん、ジイドの如き今日のヒューマニストにおいて見出されるのも、同樣の意味における病氣の體驗である。病氣の體驗が原罪の體驗に代つたところに近代主義の始と終がある。ヒューマニズムは罪の觀念でなくて病氣の觀念から出發するのであらうか。罪と病氣との差異は何處にあるのであらうか。罪は死であり、病氣はなほ生であるのか。死は觀念であり、病氣は經驗であるのか。ともかく病氣の觀念から傳統主義を導き出すことは不可能である。それでは罪の觀念の存しないといはれる束洋思想において、傳統主義といふものは、そしてまたヒューマニズムといふものは、如何なるものであらうか。問題は死の見方に關はつてゐる。
[#改ページ]
幸福について
今日の人間は幸福について殆ど考へないやうである。試みに近年現はれた倫理學書、とりわけ我が國で書かれた倫理の本を開いて見たまへ
前へ
次へ
全146ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング