礎とするのである。過去は死に切つたものであり、それはすでに死であるといふ意味において、現在に生きてゐるものにとつて絶對的なものである。半ば生き半ば死んでゐるかのやうに普通に漠然と表象されてゐる過去は、生きてゐる現在にとつて絶對的なものであり得ない。過去は何よりもまづ死せるものとして絶對的なものである。この絶對的なものは、ただ絶對的な死であるか、それとも絶對的な生命であるか。死せるものは今生きてゐるもののやうに生長することもなければ老衰することもない。そこで死者の生命が信ぜられるならば、それは絶對的な生命でなければならぬ。この絶對的な生命は眞理にほかならない。從つて言ひ換へると、過去は眞理であるか、それとも無であるか。傳統主義はまさにこの二者擇一に對する我々の決意を要求してゐるのである。それは我々の中へ自然的に流れ込み、自然的に我々の生命の一部分になつてゐると考へられるやうな過去を問題にしてゐるのではない。
かやうな傳統主義はいはゆる歴史主義とは嚴密に區別されねばならぬ。歴史主義は進化主義と同樣近代主義の一つであり、それ自身進化主義になることができる。かやうな傳統主義はキリスト教、特に
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