へさせることが一層容易でないといふことが考へられ得るであらうか。
私はいま人間の不死を立證しようとも、或ひはまた否定しようともするのではない。私のいはうと欲するのは、死者の生命を考へることは生者の生命を考へることよりも論理的に一層困難であることはあり得ないといふことである。死は觀念である。それだから觀念の力に頼つて人生を生きようとするものは死の思想を掴むことから出發するのがつねである。すべての宗教がさうである。
傳統の問題は死者の生命の問題である。それは生きてゐる者の生長の問題ではない。通俗の傳統主義の誤謬――この誤謬はしかしシェリングやヘーゲルの如きドイツの最大の哲學者でさへもが共にしてゐる――は、すべてのものは過去から次第に生長してきたと考へることによつて傳統主義を考へようとするところにある。かやうな根本において自然哲學的な見方からは絶對的な眞理であらうとする傳統主義の意味は理解されることができぬ。傳統の意味が自分自身で自分自身の中から生成するもののうちに求められる限り、それは相對的なものに過ぎない。絶對的な傳統主義は、生けるものの生長の論理でなくて死せるものの生命の論理を基
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