。只の一個所も幸福の問題を取扱つてゐない書物を發見することは諸君にとつて甚だ容易であらう。かやうな書物を倫理の本と信じてよいのかどうか、その著者を倫理學者と認めるべきであるのかどうか、私にはわからない。疑ひなく確かなことは、過去のすべての時代においてつねに幸福が倫理の中心問題であつたといふことである。ギリシアの古典的な倫理學がさうであつたし、ストアの嚴肅主義の如きも幸福のために節欲を説いたのであり、キリスト教においても、アウグスティヌスやパスカルなどは、人間はどこまでも幸福を求めるといふ事實を根本として彼等の宗教論や倫理學を出立したのである。幸福について考へないことは今日の人間の特徴である。現代における倫理の混亂は種々に論じられてゐるが、倫理の本から幸福論が喪失したといふことはこの混亂を代表する事實である。新たに幸福論が設定されるまでは倫理の混亂は救はれないであらう。
 幸福について考へることはすでに一つの、恐らく最大の、不幸の兆しであるといはれるかも知れない。健全な胃をもつてゐる者が胃の存在を感じないやうに、幸福である者は幸福について考へないといはれるであらう。しかしながら今日の人間
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