と出てくるに違ひないと思ふ。人間の虚榮心は死をも對象とすることができるまでに大きい。そのやうな人間が虚榮的であることは何人も直ちに理解して嘲笑するであらう。しかるに世の中にはこれに劣らぬ虚榮の出來事が多いことにひとは容易に氣附かないのである。
執着する何ものもないといつた虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。執着するものがあるから死に切れないといふことは、執着するものがあるから死ねるといふことである。深く執着するものがある者は、死後自分の歸つてゆくべきところをもつてゐる。それだから死に對する準備といふのは、どこまでも執着するものを作るといふことである。私に眞に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する。
死の問題は傳統の問題につながつてゐる。死者が蘇りまた生きながらへることを信じないで、傳統を信じることができるであらうか。蘇りまた生きながらへるのは業績であつて、作者ではないといはれるかも知れない。しかしながら作られたものが作るものよりも偉大であるといふことは可能であるか。原因は結果に少くとも等しいか、もしくはより大きいといふのが、自然の法則であると考へられてゐ
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