であらう。もちろん此處にも思想がなかつたのではない、ただその思想といふものの意味が違つてゐる。西洋思想に對して東洋思想を主張しようとする場合、思想とは何かといふ認識論的問題から吟味してかかることが必要である。

 私にとつて死の恐怖は如何にして薄らいでいつたか。自分の親しかつた者と死別することが次第に多くなつたためである。もし私が彼等と再會することができる――これは私の最大の希望である――とすれば、それは私の死においてのほか不可能であらう。假に私が百萬年生きながらへるとしても、私はこの世において再び彼等と會ふことのないのを知つてゐる。そのプロバビリティは零である。私はもちろん私の死において彼等に會ひ得ることを確實には知つてゐない。しかしそのプロバビリティが零であるとは誰も斷言し得ないであらう、死者の國から歸つてきた者はないのであるから。二つのプロバビリティを比較するとき、後者が前者よりも大きいといふ可能性は存在する。もし私がいづれかに賭けねばならぬとすれば、私は後者に賭けるのほかないであらう。

 假に誰も死なないものとする。さうすれば、俺だけは死んでみせるぞといつて死を企てる者がきつ
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