る。生命は形によつて生き、形において死ぬる。生命は習慣によつて生き、習慣において死ぬる。死は習慣の極限である。

 習慣を自由になし得る者は人生において多くのことを爲し得る。習慣は技術的なものである故に自由にすることができる。もとよりたいていの習慣は無意識的な技術であるが、これを意識的に技術的に自由にするところに道徳がある。修養といふものはかやうな技術である。もし習慣がただ自然であるならば、習慣が道徳であるとはいひ得ないであらう。すべての道徳には技術的なものがあるといふことを理解することが大切である。習慣は我々に最も手近かなもの、我々の力のうちにある手段である。
 習慣が技術であるやうに、すべての技術は習慣的になることによつて眞に技術であることができる。どのやうな天才も習慣によるのでなければ何事も成就し得ない。

 從來修養といはれるものは道具時代の社會における道徳的形成の方法である。この時代の社會は有機的で、限定されたものであつた。しかるに今日では道具時代から機械時代に變り、我々の生活の環境も全く違つたものになつてゐる。そのために道徳においても修養といふものだけでは不十分になつた。道
前へ 次へ
全146ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング