な意味を考へようとする場合、それを習慣から説明するよりも一層適切に説明する仕方があるかどうか、私は知らない。ただその際、習慣を單なる經驗から生ずるもののやうに考へる機械的な見方を排することが必要である。經驗論は機械論であることによつて間違つてゐる。經驗の反覆といふことは習慣の本質の説明にとつてつねに不十分である。石はたとひ百萬遍同じ方向に同じ速度で投げられたにしてもそのために習慣を得ることがない、習慣は生命の内的な傾向に屬してゐる。經驗論に反對する先驗論は普通に、經驗を習慣の影響の全くない感覺と同一視してゐる。感覺を喚び起す作用のうちに現はれる習慣から影響されないやうな知識の「内容」といふものが存在するであらうか。習慣は思惟のうちにも作用する。
社會的習慣としての慣習が道徳であり、權威をもつてゐるのは、單にそれが社會的なものであるといふことに依るのではなく、却つてそれが表現的なものとして形であることに基くのである。如何なる形もつねに超越的な意味をもつてゐる。形を作るといふ生命に本質的な作用は生命に内在する超越的傾向を示してゐる。しかし形を作ることは同時に生命が自己を否定することであ
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