現代の生の哲學は逆に精神的生命そのものを無限定な流動の如く考へてゐる。この點において生の哲學も形に關する近代の機械的な考へ方に影響されてゐる。しかし精神を形相と考へたギリシア哲學は形相をなほ空間的に表象した。東洋の傳統的文化は習慣の文化であるといふことができる。習慣が自然であるやうに、東洋文化の根柢にあるのは或る自然である。また習慣が單なる自然でなく文化であるやうに、束洋的自然は同時に文化の意味をもつてゐる。文化主義的な西洋において形が空間的に表象されたのに對して、自然主義的な東洋の文化は却つて精神の眞に精神的な形を追究した。しかしすでに形といふ以上、それは純粹な精神であることができるか。習慣が自然と見られるやうに、精神の形といつても同時に自然の意味がなければならぬ。習慣は單なる精神でも單なる身體でもない具體的な生命の内的な法則である。習慣は純粹に精神的といはれる活動のうちにも見出される自然的なものである。
思惟の範疇といふものをヒュームが習慣から説明したのは、現代の認識論の批評するやうに、それほど笑ふべきことであるかどうか、私は知らない。範疇の單に論理的な意味でなくてその存在論的
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