具の技術に比して機械の技術は習慣に依存することが少く、知識に依存することが多いやうに、今日では道徳においても知識が特に重要になつてゐるのである。しかしまた道徳は有機的な身體を離れ得るものでなく、そして知性のうちにも習慣が働くといふことに注意しなければならぬ。
デカダンスは情念の不定な過剩であるのではない。デカダンスは情念の特殊な習慣である。人間の行爲が技術的であるところにデカダンスの根源がある。情念が習慣的になり、技術的になるところからデカダンスが生ずる。自然的な情念の爆發はむしろ習慣を破るものであり、デカダンスとは反對のものである。すべての習慣には何等かデカダンスの臭が感じられないであらうか。習慣によつて我々が死ぬるといふのは、習慣がデカダンスになるためであつて、習慣が靜止であるためではない。
習慣によつて我々は自由になると共に習慣によつて我々は束縛される。しかし習慣において恐るべきものは、それが我々を束縛することであるよりも、習慣のうちにデカダンスが含まれることである。
あのモラリストたちは世の中にいかに多くの奇怪な習慣が存在するかについてつねに語つてゐる。そのことはいか
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