強要するのである。かくの如きことが感傷の心理的性質そのものを示してゐる。日本人は特別に感傷的であるといふことが正しいとすれば、それは我々の久しい間の生活樣式に關係があると考へられないであらうか。

 感傷の場合、私は坐つて眺めてゐる、起つてそこまで動いてゆくのではない。いな、私はほんとには眺めてさへゐないであらう。感傷は、何について感傷するにしても、結局自分自身に止まつてゐるのであつて、物の中に入つてゆかない。批評といひ、懷疑といふも、物の中に入つてゆかない限り、一個の感傷に過ぎぬ。眞の批評は、眞の懷疑は、物の中に入つてゆくのである。

 感傷は愛、憎み、悲しみ、等、他の情念から區別されてそれらと並ぶ情念の一つの種類ではない。むしろ感傷はあらゆる情念のとり得る一つの形式である。すべての情念は、最も粗野なものから最も知的なものに至るまで、感傷の形式において存在し乃至作用することができる。愛も感傷となることができるし、憎みも感傷となることができる。簡單にいふと、感傷は情念の一つの普遍的な形式である。それが何か實體のないもののやうに思はれるのも、それが情念の一つの種類でなくて一つの存在樣相であるためである。

 感傷はすべての情念のいはば表面にある。かやうなものとしてそれはすべての情念の入口であると共に出口である。先づ後の場合が注意される。ひとつの情念はその活動をやめるとき、感傷としてあとを引き、感傷として終る。泣くことが情念を鎭めることである理由もそこにある。泣くことは激しい情念の活動を感傷に變へるための手近かな手段である。しかし泣くだけでは足りないであらう。泣き崩れなければならぬ、つまり靜止が必要である。ところで特に感傷的といはれる人間は、あらゆる情念にその固有の活動を與へないで、表面の入口で擴散させてしまふ人間のことである。だから感傷的な人間は決して深いとはいはれないが無害な人間である。

 感傷は矛盾を知らない。ひとは愛と憎みとに心が分裂するといふ。しかしそれが感傷になると、愛も憎みも一つに解け合ふ。運動は矛盾から生ずるといふ意味においても、感傷は動くものとは考へられないであらう。それはただ流れる、むしろただ漂ふ。感傷は和解の手近かな手段である。だからまたそれはしばしば宗教的な心、碎かれた心といふものと混同される。我々の感傷的な心は佛教の無常觀に影響されてゐるとこ
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