が近代科學における實證的精神であり、道徳もその意味において全く實證的でなければならぬ。
プラトンが心の秩序に相應して國家の秩序を考へたことは奇體なことではない。この構想には深い智慧が含まれてゐる。
あらゆる秩序の構想の根柢には價値體系の設定がなければならぬ。しかるに今日流行の新秩序論の基礎にどのやうな價値體系が存在するであらうか。倫理學でさへ今日では價値體系の設定を抛擲してしかも狡猾にも平然としてゐる状態である。
ニーチェが一切の價値の轉換を唱へて以後、まだどのやうな承認された價値體系も存在しない。それ以後、新秩序の設定はつねに何等か獨裁的な形をとらざるを得なかつた。一切の價値の轉換といふニーチェの思想そのものが實は近代社會の辿り着いた價値のアナーキーの表現であつた。近代デモクラシーは内面的にはいはゆる價値の多神論から無神論に、即ち虚無主義に落ちてゆく危險があつた。これを最も深く理解したのがニーチェであつた。そしてかやうな虚無主義、内面的なアナーキーこそ獨裁政治の地盤である。もし獨裁を望まないならば、虚無主義を克服して内から立直らなければならない。しかるに今日我が國の多くのインテリゲンチャは獨裁を極端に嫌ひながら自分自身はどうしてもニヒリズムから脱出することができないでゐる。
外的秩序は強力によつても作ることができる。しかし心の秩序はさうではない。
人格とは秩序である、自由といふものも秩序である。……かやうなことが理解されねばならぬ。そしてそれが理解されるとき、主觀主義は不十分となり、何等か客觀的なものを認めなければならなくなるであらう。近代の主觀主義は秩序の思想の喪失によつて虚無主義に陷つた。いはゆる無の哲學も、秩序の思想、特にまた價値體系の設定なしには、その絶對主義の虚無主義と同じになる危險が大きい。
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感傷について
精神が何であるかは身體によつて知られる。私は動きながら喜ぶことができる、喜びは私の運動を活溌にしさへするであらう。私は動きながら怒ることができる、怒は私の運動を激烈にしさへするであらう。しかるに感傷の場合、私は立ち停まる、少くとも靜止に近い状態が私に必要であるやうに思はれる。動き始めるや否や、感傷はやむか、もしくは他のものに變つてゆく。故に人を感傷から脱しさせようとするには、先づ彼を立たせ、彼に動くことを
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