ることができる。秩序は、心の秩序に關しても、技術の問題である。このことが理解されるのみでなく、能力として獲得されねばならぬ。
 最少の費用で最大の效用を擧げるといふ經濟の法則は實は經濟的法則であるよりも技術的法則であり、かやうなものとしてそれは美學の中にも入り込むのである。

 プラトンの中でソクラテスは、徳は心の秩序であるといつてゐる。これよりも具體的で實證的な徳の規定を私は知らない。今日最も忘れられてゐるのは徳のこのやうな考へ方である。そして徳は心の秩序であるといふ定義の論證にあたつてソクラテスが用ゐた方法は、注意すべきことに、建築術、造船術等、もろもろの技術との比論であつた。これは比論以上の重要な意味をもつてゐることである。

 心といふ實體性のないものについて如何にして技術は可能であるか、とひとはいふであらう。
 現代物理學はエレクトロンの説以來物質といふものから物體性を奪ひ去つた。この説は全物質界を完全に實體性のないものにするやうに見える。我々は「實體」の概念を避けて、それを「作用」の概念で置き換へなければならぬといはれてゐる。數學的に記述された物質はあらゆる日常的な親しさを失つた。
 不思議なことは、この物質觀の變革に相應する變革が、それに何等關係もない人間の心の中で準備され、實現されたといふことである。現代人の心理――必ずしも現存の心理學をいはない――と現代物理學との平行を批評的に明かにすることは、新しい倫理學の出發點でなければならぬ。

 知識人といふのは、原始的な意味においては、物を作り得る人間のことであつた。他の人間の作り得ないものを作り得る人間が知識人であつた。知識人のこの原始的な意味を我々はもう一度はつきり我々の心に思ひ浮べることが必要であると思ふ。
 ホメロスの英雄たちは自分で手工業を行つた。エウマイオスは自分で革を截斷して履物を作つたといはれ、オデュッセウスは非常に器用な大工で指物師であつたやうに記されてゐる。我々にとつてこれは羨望に價することではないであらうか。

 道徳の中にも手工業的なものがある。そしてこれが道徳の基礎的なものである。
 しかし困難は、今日物的技術において「道具」の技術から「機械」の技術に變化したやうな大きな變革が、道徳の領域においても要求されてゐるところにある。

 作ることによつて知るといふことが大切である。これ
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