ろが少くないであらう。それだけに兩者を嚴格に區別することが肝要である。

 感傷はただ感傷を喚び起す、さうでなければただ消えてゆく。

 情念はその固有の力によつて創造する、乃至は破壞する。しかし感傷はさうではない。情念はその固有の力によつてイマジネーションを喚び起す。しかし感傷に伴ふのはドゥリームでしかない。イマジネーションは創造的であり得る。しかしドゥリームはさうではない。そこには動くものと動かぬものとの間の差異があるであらう。

 感傷的であることが藝術的であるかのやうに考へるのは、一つの感傷でしかない。感傷的であることが宗教的であるかのやうに考へる者に至つては、更にそれ以上感傷的であるといはねばならぬ。宗教はもとより、藝術も、感傷からの脱出である。

 瞑想は多くの場合感傷から出てくる、少くとも感傷を伴ひ、或ひは感傷に變つてゆく。思索する者は感傷の誘惑に負けてはならぬ。
 感傷は趣味になることができ、またしばしばさうなつてゐる。感傷はそのやうに甘味なものであり、誘惑的である。瞑想が趣味になるのは、それが感傷的になるためである。

 すべての趣味と同じやうに、感傷は本質的にはただ過去のものの上にのみ働くのである。それは出來つつあるものに對してでなく出來上つたものに對して働くのである。すべて過ぎ去つたものは感傷的に美しい。感傷的な人間は囘顧することを好む。ひとは未來について感傷することができぬ。少くとも感傷の對象であるやうな未來は眞の未來ではない。

 感傷は制作的でなくて鑑賞的である。しかし私は感傷によつて何を鑑賞するのであらうか。物の中に入らないで私は物を鑑賞し得るであらうか。感傷において私は物を味つてゐるのでなく自分自身を味つてゐるのである。いな、正確にいふと、私は自分自身を味つてゐるのでさへなく、ただ感傷そのものを味つてゐるのである。
 感傷は主觀主義である。青年が感傷的であるのはこの時代が主觀的な時期であるためである。主觀主義者は、どれほど概念的或ひは論理的に裝はうとも、内實は感傷家でしかないことが多い。

 あらゆる情念のうち喜びは感傷的になることが最も少い情念である。そこに喜びのもつ特殊な積極性がある。

 感傷には個性がない、それは眞の主觀性ではないから。その意味で感傷は大衆的である。だから大衆文學といふものは本質的に感傷的である。大衆文學の作家
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