は過去の人物を取扱ふのがつねであるのも、これに關係するであらう。彼等と純文學の作家との差異は、彼等が現代の人物を同じやうに巧に描くことができない點にある。この簡單な事柄のうちに藝術論における種々の重要な問題が含まれてゐる。
感傷はたいていの場合マンネリズムに陷つてゐる。
身體の外觀が精神の状態と必ずしも一致しないことは、一見極めて頑丈な人間が甚だ感傷的である場合が存在することによつて知られる。
旅は人を感傷的にするといふ。彼は動くことによつて感傷的になるのであらうか。もしさうであるとすれば、私の最初の定義は間違つてゐることになる。だがさうではない。旅において人が感傷的になり易いのは、むしろ彼がその日常の活動から脱け出すためであり、無爲になるためである。感傷は私のウィーク・エンドである。
行動的な人間は感傷的でない。思想家は行動人としての如く思索しなければならぬ。勤勉が思想家の徳であるといふのは、彼が感傷的になる誘惑の多いためである。
あらゆる物が流轉するのを見て感傷的になるのは、物を捉へてその中に入ることのできぬ自己を感じるためである。自己もまた流轉の中にあるのを知るとき、私は單なる感傷に止まり得るであらうか。
感傷には常に何等かの虚榮がある。
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假説について
思想が何であるかは、これを生活に對して考へてみると明瞭になるであらう。生活は事實である、どこまでも經驗的なものである。それに對して思想にはつねに假説的なところがある。假説的なところのないやうな思想は思想とはいはれないであらう。思想が純粹に思想としてもつてゐる力は假説の力である。思想はその假説の大いさに從つて偉大である。もし思想に假説的なところがないとすれば、如何にしてそれは生活から區別され得るであらうか。考へるといふこともそれ自身としては明かに我々の生活の一部分であつて、これと別のものではない。しかるにそのものがなほ生活から區別されるのは、考へるといふことが本質的には假説的に考へることであるためである。
考へるといふことは過程的に考へることである。過程的な思考であつて方法的であることができる。しかるに思考が過程的であるのは假説的に考へるからである。即ち假説的な思考であつて方法的であることができる。懷疑にしても方法的であるためには假説に依らねばならぬことは、
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