デカルトの懷疑において模範的に示されてゐる。
假説的に考へるといふことは論理的に考へるといふことと單純に同じではない。假説は或る意味で論理よりも根源的であり、論理はむしろそこから出てくる。論理そのものが一つの假説であるといふこともできるであらう。假説は自己自身から論理を作り出す力をさへもつてゐる。論理よりも不確實なものから論理が出てくるのである。論理も假説を作り出すものと考へられる限りそれ自身假説的なものと考へられねばならぬ。
すべて確實なものは不確實なものから出てくるのであつて、その逆でないといふことは、深く考ふべきことである。つまり確實なものは與へられたものでなくて形成されるものであり、假説はこの形成的な力である。認識は模寫でなくて形成である。精神は藝術家であり、鏡ではない。
しかし思想のみが假説的であつて、人生は假説的でないのであらうか。人生も或る假説的なものである。それが假説的であるのは、それが虚無に繋がるためである。各人はいはば一つの假説を證明するために生れてゐる。生きてゐることは、ただ生きてゐるといふことを證明するためではないであらう、――そのやうな證明はおよそ不要である、――實に、一つの假説を證明するためである。だから人生は實驗であると考へられる。――假説なしに實驗といふものはあり得ない。――もとよりそれは、何でも勝手にやつてみることではなく、自分がそれを證明するために生れた固有の假説を追求することである。
人生が假説的なものであるとすれば、思想が人生に對して假説的なものとして區別されるのと同じ仕方で、人生がそのものに對して假説的なものとして區別される或るものがあるのでなければならぬ。
假説が單に論理的なものでないことは、それが文學の思考などのうちにもあるといふことによつて明かである。小説家の創作行動はただひとすぢに彼の假説を證明することである。人生が假説の證明であるといふ意味はこれに類似してゐる。假説は少くともこの場合單なる思惟に屬するのでなく、構想力に屬してゐる。それはフィクションであるといふこともできるであらう。假説は不定なもの、可能的なものである。だからそれを證明することが問題である。それが不定なもの、可能的なものであるといふのは單に論理的意味においてでなく、むしろ存在論的意味においてである。言ひ換へると、それは人間の存在が虚無
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