を條件とするのみでなく虚無と混合されてゐることを意味してゐる。從つて假説の證明が創造的形成でなければならぬことは小説におけると同じである。人生において實驗といふのはかやうな形成をいふのである。

 常識を思想から區別する最も重要な特徴は、常識には假説的なところがないといふことである。

 思想は假説でなくて信念でなければならぬといはれるかも知れない。しかるに思想が信念でなければならぬといふことこそ、思想が假説であることを示すものである。常識の場合にはことさら信仰は要らない、常識には假説的なところがないからである。常識は既に[#「既に」に傍点]或る信仰である、これに反して思想は信念にならねばならぬ[#「ねばならぬ」に傍点]。

 すべての思想らしい思想はつねに極端なところをもつてゐる。なぜならそれは假説の追求であるから。これに對して常識のもつてゐる大きな徳は中庸といふことである。しかるに眞の思想は行動に移すと生きるか死ぬるかといつた性質をもつてゐる。思想のこの危險な性質は、行動人は理解してゐるが、思想に從事する者においては却つて忘れられてゐる。ただ偉大な思想家のみはそのことを行動人よりも深く知つてゐる。ソクラテスが從容として死に就いたのはそのためであつたであらう。

 誤解を受けることが思想家のつねの運命のやうになつてゐるのは、世の中には彼の思想が一つの假説であることを理解する者が少いためである。しかしその罪の一半はたいていの場合思想家自身にもあるのであつて、彼自身その思想が假説的なものであることを忘れるのである。それは彼の怠惰に依ることが多い。探求の續いてゐる限り思想の假説的性質は絶えず顯はである。

 折衷主義が思想として無力であるのは、そこでは假説の純粹さが失はれるためである。それは好むと好まないとに拘らず常識に近づく、常識には假説的なところがない。

 假説といふ思想は近代科學のもたらした恐らく最大の思想である。近代科學の實證性に對する誤解は、そのなかに含まれる假説の精神を全く見逃したか、正しく把握しなかつたところから生じた。かやうにして實證主義は虚無主義に陷らねばならなかつた。假説の精神を知らないならば、實證主義は虚無主意[#「意」はママ]に落ちてゆくのほかない。
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    僞善について

「人間は生れつき嘘吐きである」、とラ・ブリュイエール
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