はいつた。「眞理は單純であり、そして人間はけばけばしいこと、飾り立てることを好む。眞理は人間に屬しない、それはいはば出來上つて、そのあらゆる完全性において、天から來る。そして人間は自分自身の作品、作り事とお伽噺のほか愛しない。」人間が生れつき嘘吐きであるといふのは、虚榮が彼の存在の一般的性質であるためである。そこで彼はけばけばしいこと、飾り立てることを好む。虚榮はその實體に從つていふと虚無である。だから人間は作り事やお伽噺を作るのであり、そのやうな自分自身の作品を愛するのである。眞理は人間の仕事ではない。それは出來上つて、そのあらゆる完全性において、人間とは關係なく、そこにあるものである。

 その本性において虚榮的である人間は僞善的である。眞理とは別に善があるのでないやうに、虚榮とは別に僞善があるのではない。善が眞理と一つのものであることを理解した者であつて僞善が何であるかを理解することができる。虚榮が人生に若干の效用をもつてゐるやうに、僞善も人生に若干の效用をもつてゐる。僞善が虚榮と本質的に同じものであることを理解しない者は、僞善に對する反感からと稱して自分自身ひとつの虚榮の虜になつてゐる。僞善に對して僞惡といふ妙な言葉で呼ばれるものがそれである。その僞惡といふものこそ明かに人間のおぼつかない虚榮ではないか。そのものは僞善が虚榮にほかならぬことを他面から明瞭にするのである。かやうな僞惡家の特徴は感傷的であるといふことである。嘗て私は僞惡家と稱する者で感傷家でないやうな人間を見たことがない。僞善に反感を感じる彼のモラルもセンチメンタリズムでしかない。僞惡家はとかく自分で想像してゐるやうに深い人間ではない。その彼の想像がまた一つのセンチメンタリズムに屬してゐる。もし彼が無害な人間であるとしたなら、それは一般に感傷的な人間は深くはないが無害であるといふことに依るのである。

 ひとはただ他の人間に對する關係においてのみ僞善的になると考へるのは間違つてゐる。僞善は虚榮であり、虚榮の實體は虚無である、そして虚無は人間の存在そのものである。あらゆる徳が本來自己におけるものであるやうに、あらゆる惡徳もまた本來自己におけるものである。その自己を忘れて、ただ他の人間、社會をのみ相手に考へるところから僞善者といふものが生じる。それだから道徳の社會性といふが如きことが力説されるやうに
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