學は健康の窮迫感から、その意味での病氣感から出てきた。しかるに以前の養生論においては、所有されてゐるものとしての健康から出立して、如何にしてこの自然のものを形成しつつ維持するかといふことが問題であつた。健康は發明させない、病氣が發明させるのである。

 健康の問題は人間的自然の問題である。といふのは、それは單なる身體の問題ではないといふことである。健康には身體の體操と共に精神の體操が必要である。

 私の身體は世の中の物のうち私の思想が變化することのできるものである。想像の病氣は實際の病氣になることができる。他の物においては私の假定が物の秩序を亂すことはあり得ないのに。何よりも自分の身體に關する恐怖を遠ざけねばならぬ。恐怖は效果のない動搖を生ずるだけであり、そして思案はつねに恐怖を増すであらう。ひとは自分が破滅したと考へるやうになる、ところが一旦何か緊急の用事が出來ると、彼は自分の生命が完全であるのを見出すといつた例は多い。

 自然に從へといふのが健康法の公理である。必要なのは、この言葉の意味を形而上學的な深みにおいて理解することである。さしあたりこの自然は一般的なものでなくて個別的なもの、また自己形成的なものである。自然に從ふといふのは自然を模倣するといふことである。――模倣の思想は近代的な發明の思想とは異つてゐる。――その利益は、無用の不安を除いて安心を與へるといふ道徳的效果にある。

 健康は物の形といふやうに直觀的具體的なものである。

 近代醫學が發達した後においても、健康の問題は究極において自然形而上學の問題である。そこに何か變化がなければならぬとすれば、その形而上學が新しいものにならねばならぬといふだけである。醫者の不養生といふ諺は、養生については、醫者にも形而上學が必要であることを示すものにほかならぬ。

 客觀的なものは健康であり、主觀的なものは病的である。この言葉のうちに含まれる形而上學から、ひとは立派な養生訓を引き出すことができるであらう。

 健康の觀念に最も大きな變化を與へたのはキリスト教であつた。この影響はその主觀性の哲學から生じたのである。健康の哲學を求めたニーチェがあのやうに嚴しくキリスト教を攻撃したのは當然である。けれどもニーチェ自身の主觀主義は、彼があれほど求めた健康の哲學に對して破壞的であるのほかなかつた。ここに注意すべきこと
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