は、近代科學の客觀主義は近代の主觀主義を單に裏返したものであり、これと雙生兒であるといふことである。かやうにして主觀主義が出てきてから、病氣の觀念は獨自性をもち、固有の意味を得てきたのである。病氣は健康の缺乏といふより積極的な意味のものとなつた。
近代主義の行き着いたところは人格の分解であるといはれる。しかるにそれと共に重要な出來事は、健康の觀念が同じやうに分裂してしまつたといふことである。現代人はもはや健康の完全なイメージを持たない。そこに現代人の不幸の大きな原因がある。如何にして健康の完全なイメージを取り戻すか、これが今日の最大の問題の一つである。
「健康そのものといふものはない」、とニーチェはいつた。これは科學的判斷ではなく、ニーチェの哲學を表明したものにほかならぬ。「何が一般に病氣であるかは、醫者の判斷よりも患者の判斷及びそれぞれの文化圈の支配的な見解に依存してゐる」、とカール・ヤスペルスはいふ。そして彼の考へるやうに、病氣や健康は存在判斷でなくて價値判斷であるとすれば、それは哲學に屬することにならう。經驗的な存在概念としては平均といふものを持ち出すほかない。しかしながら平均的な健康といふものによつては人それぞれに個性的な健康について何等本質的なものを把握することができぬ。もしまた健康は目的論的概念であるとすれば、そのことによつてまさにそれは科學の範圍を脱することになるであらう。
自然哲學或ひは自然形而上學が失はれたといふことが、この時代にかくも健康が失はれてゐる原因である。そしてそれがまたこの科學的時代に、病氣に關してかくも多くの迷信が存在する理由である。
實際、健康に關する多くの記述はつねに何等かの形而上學的原理を含んでゐる。例へばいふ、變化を行ひ、反對のことを交換せよ、しかしより穩かな極端に對する好みをもつて。絶食と飽食とを用ゐよ、しかしむしろ飽食を。覺めてゐることと眠ることとを、しかしむしろ眠ることを。坐つてゐることと動くこととを、しかしむしろ動くことを。――これはひとつの形而上學的思考である。また例へばいふ、唯一つのことを變へるのは善くない、一つのことよりも多くのことを變へるのがより安全である。――これもひとつの形而上學的原理を現はしてゐる。
健康といふのは平和といふのと同じである。そこに如何に多くの種類があり、多くの價値の相違が
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