押し附けられるものであるといふことの最も日常的な例がここにある。
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    健康について

 何が自分の爲になり、何が自分の害になるか、の自分自身の觀察が、健康を保つ最上の物理學であるといふことには、物理學の規則を超えた智慧がある。――私はここにこのベーコンの言葉を記すのを禁ずることができない。これは極めて重要な養生訓である。しかもその根柢にあるのは、健康は各自のものであるといふ、單純な、單純な故に敬虔なとさへいひ得る眞理である。

 誰も他人の身代りに健康になることができぬ、また誰も自分の身代りに健康になることができぬ。健康は全く銘々のものである。そしてまさにその點において平等のものである。私はそこに或る宗教的なものを感じる。すべての養生訓はそこから出立しなければならぬ。

 風采や氣質や才能については、各人に個性があることは誰も知つてゐる。しかるに健康について同じやうに、それが全く個性的なものであることを誰も理解してゐるであらうか。この場合ひとはただ丈夫なとか弱いとかいふ甚だ一般的な判斷で滿足してゐるやうに思はれる。ところが戀愛や結婚や交際において幸福と不幸を決定するひとつの最も重要な要素は、各自の健康における極めて個性的なものである。生理的親和性は心理的親和性に劣らず微妙で、大切である。多くの人間はそれに氣附かない、しかし本能が彼等のために選擇を行つてゐるのである。
 かやうに健康は個性的なものであるとすれば、健康についての規則は人間的個性に關する規則と異らないことになるであらう。――即ち先づ自己の個性を發見すること、その個性に忠實であること、そしてその個性を形成してゆくことである。生理學の規則と心理學の規則とは同じである。或ひは、生理學の規則は心理學的にならねばならず、逆に心理學の規則は生理學的にならねばならぬ。

 養生論の根柢には全自然哲學がある。これは以前、東洋においても西洋においても、さうであつたし、今日もまたさうでなければならぬ。ここに自然哲學といふのはもちろんあの醫學や生理學のことではない。この自然哲學と近代科學との相違は、後者が窮迫感から出發するのに反して、前者は所有感から出立するところにあるといふことができるであらう。發明は窮迫感から生ずる。故に後者が發明的であるのに反して、前者は發見的であるといふこともできるであらう。近代醫
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