層よく制することができるといふのは、一般的な眞理である。英雄は嫉妬的でないといふ言葉がもしほんとであるとしたら、彼等においては功名心とか競爭心とかいふ他の情念が嫉妬よりも強く、そして重要なことは、一層持續的な力になつてゐるといふことである。

 功名心や競爭心はしばしば嫉妬と間違へられる。しかし兩者の差異は明瞭である。先づ功名心や競爭心は公共的な場所を知つてゐるに反し、嫉妬はそれを知らない。嫉妬はすべての公事を私事と解して考へる。嫉妬が功名心や競爭心に轉化されることは、その逆の場合よりも遙かに困難である。

 嫉妬はつねに多忙である。嫉妬の如く多忙で、しかも不生産的な情念の存在を私は知らない。

 もし無邪氣な心といふものを定義しようとするなら、嫉妬的でない心といふのが何よりも適當であらう。

 自信がないことから嫉妬が起るといふのは正しい。尤も何等の自信もなければ嫉妬の起りやうもないわけであるが。しかし嫉妬はその對象において自己が嫉妬してゐる當の點を避けて他の點に觸れるのがつねである。嫉妬は詐術的である。

 嫉妬心をなくするために、自信を持てといはれる。だが自信は如何にして生ずるのであるか。自分で物を作ることによつて。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによつて自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事實からも理解されるであらう。
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    成功について

 今日の倫理學の殆どすべてにおいて置き忘れられた二つの最も著しいものは、幸福と成功といふものである。しかもそれは相反する意味においてそのやうになつてゐるのである。即ち幸福はもはや現代的なものでない故に。そして成功はあまりに現代的なものである故に。
 古代人や中世的人間のモラルのうちには、我々の意味における成功といふものは何處にも存しないやうに思ふ。彼等のモラルの中心は幸福であつたのに反して、現代人のそれは成功であるといつてよいであらう。成功するといふことが人々の主な問題となるやうになつたとき、幸福といふものはもはや人々の深い關心でなくなつた。

 成功のモラルが近代に特徴的なものであることは、進歩の觀念が近代に特徴的なものであるのに似てゐるであらう。實は兩者の間に密接な關係があるのである。近代啓蒙主義の倫理における幸福論は幸福
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