しまない者は、相手に嫉妬を起させるやうな手段を用ゐる。
嫉妬は平生は「考へ」ない人間にも「考へ」させる。
愛と嫉妬との強さは、それらが烈しく想像力を働かせることに基いてゐる。想像力は魔術的なものである。ひとは自分の想像力で作り出したものに對して嫉妬する。愛と嫉妬とが術策的であるといふことも、それらが想像力を驅り立て、想像力に驅り立てられて動くところから生ずる。しかも嫉妬において想像力が働くのはその中に混入してゐる何等かの愛に依つてである。嫉妬の底に愛がなく、愛のうちに惡魔がゐないと、誰が知らうか。
嫉妬は自分よりも高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に對して起る。だがその差異が絶對的でなく、自分も彼のやうになり得ると考へられることが必要である。全く異質的でなく、共通なものがなければならぬ。しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。嫉妬がより高いものを目差してゐるやうに見えるのは表面上のことである、それは本質的には平均的なものに向つてゐるのである。この點、愛がその本性においてつねにより高いものに憧れるのと異つてゐる。
かやうにして嫉妬は、愛と相反する性質のものとして、人間的な愛に何か補はねばならぬものがあるかの如く、絶えずその中に干渉してくるのである。
同じ職業の者が眞の友達になることは違つた職業の者の間においてよりも遙かに困難である。
嫉妬は性質的なものの上に働くのでなく、量的なものの上に働くのである。特殊的なもの、個性的なものは、嫉妬の對象とはならぬ。嫉妬は他を個性として認めること、自分を個性として理解することを知らない。一般的なものに關してひとは嫉妬するのである。これに反して愛の對象となるのは一般的なものでなくて特殊的なもの、個性的なものである。
嫉妬は心の奧深く燃えるのがつねであるにも拘らず、何等内面性を知らぬ。
嫉妬とはすべての人間が神の前においては平等であることを知らぬ者の人間の世界において平均化を求める傾向である。
嫉妬は出歩いて、家を守らない。それは自分に留まらないで絶えず外へ出てゆく好奇心のひとつの大きな原因になつてゐる。嫉妬のまじらない無邪氣な好奇心といふものは如何に稀であるか。
一つの情念は知性に依つてよりも他の情念に依つて一
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