。感情は多くの場合客觀的なもの、社會化されたものであり、知性こそ主觀的なもの、人格的なものである。眞に主觀的な感情は知性的である。孤獨は感情でなく知性に屬するのでなければならぬ。

 眞理と客觀性、從つて非人格性とを同一視する哲學的見解ほど有害なものはない。かやうな見解は眞理の内面性のみでなく、また特にその表現性を理解しないのである。

 いかなる對象も私をして孤獨を超えさせることはできぬ。孤獨において私は對象の世界を全體として超えてゐるのである。
 孤獨であるとき、我々は物から滅ぼされることはない。我々が物において滅ぶのは孤獨を知らない時である。

 物が眞に表現的なものとして我々に迫るのは孤獨においてである。そして我々が孤獨を超えることができるのはその呼び掛けに應へる自己の表現活動においてのほかない。アウグスティヌスは、植物は人間から見られることを求めてをり、見られることがそれにとつて救濟であるといつたが、表現することは物を救ふことであり、物を救ふことによつて自己を救ふことである。かやうにして、孤獨は最も深い愛に根差してゐる。そこに孤獨の實在性がある。
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    嫉妬について

 もし私に人間の性の善であることを疑はせるものがあるとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在である。嫉妬こそベーコンがいつたやうに惡魔に最もふさはしい屬性である。なぜなら嫉妬は狡猾に、闇の中で、善いものを害することに向つて働くのが一般であるから。

 どのやうな情念でも、天眞爛漫に現はれる場合、つねに或る美しさをもつてゐる。しかるに嫉妬には天眞爛漫といふことがない。愛と嫉妬とは、種々の點で似たところがあるが、先づこの一點で全く違つてゐる。即ち愛は純粹であり得るに反して、嫉妬はつねに陰險である。それは子供の嫉妬においてすらさうである。

 愛と嫉妬とはあらゆる情念のうち最も術策的である。それらは他の情念に比して遙かに持續的な性質のものであり、從つてそこに理智の術策が入つてくることができる。また逆に理智の術策によつてそれらの情念は持續性を増すのである。如何なる情念も愛と嫉妬とほど人間を苦しめない、なぜなら他の情念はそれほど持續的でないから。この苦しみの中からあらゆる術策が生れてくる。しかも愛は嫉妬の混入によつて術策的になることが如何に多いか。だから術策的な愛によつてのほか樂
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