ものがあるのか。死の條件以外に死そのものがあるであらうか。その條件以外にその實體を捉へることのできぬもの、――死も、孤獨も、まことにかくの如きものであらうと思はれる。しかも、實體性のないものは實在性のないものといへるか、またいはねばならないのであるか。

 古代哲學は實體性のないところに實在性を考へることができなかつた。從つてそこでは、死も、そして孤獨も、恰も闇が光の缺乏と考へられたやうに、單に缺乏(ステレーシス)を意味するに過ぎなかつたであらう。しかるに近代人は條件に依つて思考する。條件に依つて思考することを教へたのは近代科學である。だから近代科學は死の恐怖や孤獨の恐怖の虚妄性を明かにしたのでなく、むしろその實在性を示したのである。

 孤獨といふのは獨居のことではない。獨居は孤獨の一つの條件に過ぎず、しかもその外的な條件である。むしろひとは孤獨を逃れるために獨居しさへするのである。隱遁者といふものはしばしばかやうな人である。

 孤獨は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤獨は「間」にあるものとして空間の如きものである。「眞空の恐怖」――それは物質のものでなくて人間のものである。

 孤獨は内に閉ぢこもることではない。孤獨を感じるとき、試みに、自分の手を伸して、じつと見詰めよ。孤獨の感じは急に迫つてくるであらう。

 孤獨を味ふために、西洋人なら街に出るであらう。ところが東洋人は自然の中に入つた。彼等には自然が社會の如きものであつたのである。東洋人に社會意識がないといふのは、彼等には人間と自然とが對立的に考へられないためである。

 東洋人の世界は薄明の世界である。しかるに西洋人の世界は晝の世界と夜の世界である。晝と夜との對立のないところが薄明である。薄明の淋しさほ晝の淋しさとも夜の淋しさとも性質的に違つてゐる。

 孤獨には美的な誘惑がある。孤獨には味ひがある。もし誰もが孤獨を好むとしたら、この味ひのためである。孤獨の美的な誘惑は女の子も知つてゐる。孤獨のより高い倫理的意義に達することが問題であるのだ。
 その一生が孤獨の倫理的意義の探求であつたといひ得るキェルケゴールでさへ、その美的な誘惑にしばしば負けてゐるのである。

 感情は主觀的で知性は客觀的であるといふ普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層眞理に近い
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