いのは、人格の分解の時代と呼ばれる現代の特徴に相應してゐる。そしてこの事實は逆に幸福が人格であるといふ命題をいはば世界史的規模において證明するものである。

 幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるやうにいつでも氣樂にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし眞の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じやうに彼自身と一つのものである。この幸福をもつて彼はあらゆる困難と鬪ふのである。幸福を武器として鬪ふ者のみが斃れてもなほ幸福である。

 機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現はれる。歌はぬ詩人といふものは眞の詩人でない如く、單に内面的であるといふやうな幸福は眞の幸福ではないであらう。幸福は表現的なものである。鳥の歌ふが如くおのづから外に現はれて他の人を幸福にするものが眞の幸福である。
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    懷疑について

 懷疑の意味を正確に判斷することは容易でないやうに見える。或る場合には懷疑は神祕化され、それから一つの宗教が生ずるまでに至つてゐる。あらゆる神祕を拂ひのけることが懷疑の仕事であるであらうに。反對に他の場合には如何なる懷疑も懷疑であるといふ理由で容赦なく不道徳として貶せられてゐる。懷疑は知性の一つの徳であり得るであらうに。前の場合、懷疑そのものが一つの獨斷となる。後の場合、懷疑を頭から敲きつけようとするのもやはり獨斷である。
 いづれにしても確かなことは、懷疑が特に人間的なものであるといふことである。神には懷疑はないであらう、また動物にも懷疑はないであらう。懷疑は天使でもなく獸でもない人間に固有なものである。人間は知性によつて動物にまさるといはれるならば、それは懷疑によつて特色附けられることができるであらう。實際、多少とも懷疑的でないやうな知性人があるであらうか。そして獨斷家は或る場合には天使の如く見え、或る場合には獸の如く見えないであらうか。

 人間的な知性の自由はさしあたり懷疑のうちにある。自由人といはれる者で懷疑的でなかつたやうな人を私は知らない。あの 〔honne^te homme〕(眞人間)といはれた者にはみな懷疑的なところがあつたし、そしてそれは自由人を意味したのである。しかるに哲學者が自由の概念をどのやうに規定するにしても、現實
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