死として一般的なものである。人祖アダムといふ思想はここに根據をもつてゐる。死の有するこの不思議な一般性こそ我々を困惑させるものである。死はその一般性において人間を分離する。ひとびとは唯ひとり死ぬる故に孤獨であるのではなく、死が一般的なものである故にひとびとは死に會つて孤獨であるのである。私が生き殘り、汝が唯ひとり死んでゆくとしても、もし汝の死が一般的なものでないならば、私は汝の死において孤獨を感じないであらう。
しかるに生はつねに特殊的なものである。一般的な死が分離するに反して、特殊的な生は結合する。死は一般的なものといふ意味において觀念と考へられるに對して、生は特殊的なものといふ意味において想像と考へられる。我々の想像力は特殊的なものにおいてのほか樂しまない。(藝術家は本性上多神論者である)。もとより人間は單に特殊的なものでなく同時に一般的なものである。しかし生の有する一般性は死の有する一般性とは異つてゐる。死の一般性が觀念の有する一般性に類するとすれば、生の一般性は想像力に關はるところのタイプの一般性と同樣のものである。個性とは別にタイプがあるのでなく、タイプは個性である。死そのものにはタイプがない。死のタイプを考へるのは死をなほ生から考へるからである。個性は多樣の統一であるが、相矛盾する多樣なものを統一して一つの形に形成するものが構想力にほかならない。感性からも知性からも考へられない個性は構想力から考へられねばならぬ。生と同じく幸福が想像であるといふことは、個性が幸福であることを意味してゐる。
自然はその發展の段階を昇るに從つて益々多くの個性に分化する。そのことは闇から光を求めて創造する自然の根源的な欲求が如何なるものであるかを語つてゐる。
人格は地の子らの最高の幸福であるといふゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるといふことは人格になるといふことである。
幸福は肉體的快樂にあるか精神的快樂にあるか、活動にあるか存在にあるかといふが如き問は、我々をただ紛糾に引き入れるだけである。かやうな問に對しては、そのいづれでもあると答へるのほかないであらう。なぜなら、人格は肉體であると共に精神であり、活動であると共に存在であるから。そしてかかることは人格といふものが形成されるものであることを意味してゐる。
今日ひとが幸福について考へな
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