る。その際見逃してならぬことは、この現代哲學の一つの特徴が幸福論の抹殺と關聯してゐるといふことである。
幸福を單に感性的なものと考へることは間違つてゐる。むしろ主知主義が倫理上の幸福説と結び附くのがつねであることを思想の歴史は示してゐる。幸福の問題は主知主義にとつて最大の支柱であるとさへいふことができる。もし幸福論を抹殺してかかるなら、主知主義を扼殺することは容易である。實際、今日の反主知主義の思想の殆どすべてはこのやうに幸福論を抹殺することから出發してゐるのである。そこに今日の反主知主義の祕密がある。
幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考へねばならぬといふのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に對して、自分が幸福であることよりなほ以上の善いことを爲し得るであらうか。
愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であつたのでなく、反對に、彼等は幸福であつた故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犧牲にするといふに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるといふことは幸福の何よりもよく示すところである。
死は觀念である、と私は書いた。これに對して生は何であるか。生とは想像である、と私はいはうと思ふ。いかに生の現實性を主張する者も、飜つてこれを死と比較するとき、生がいかに想像的なものであるかを理解するであらう。想像的なものは非現實的であるのでなく、却つて現實的なものは想像的なものであるのである。現實は私のいふ構想力(想像力)の論理に從つてゐる。人生は夢であるといふことを誰が感じなかつたであらうか。それは單なる比喩ではない、それは實感である。この實感の根據が明かにされねばならぬ、言ひ換へると、夢或ひは空想的なものの現實性が示されなければならない。その證明を與へるものは構想力の形成作用である。生が想像的なものであるといふ意味において幸福も想像的なものであるといふことができる。
人間を一般的なものとして理解するには、死から理解することが必要である。死はもとより全く具體的なものである。しかしこの全く具體的な死はそれにも拘らず一般的なものである。「ひとは唯ひとり死ぬるであらう」、とパスカルはいつた。各人がみな別々に死んでゆく、けれどもその死はそれにも拘らず
前へ
次へ
全73ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング