の人間的な自由は節度のうちにある。古典的なヒューマニズムにおいて最も重要な徳であつたこの節度といふものは現代の思想においては稀になつてゐる。懷疑が知性の徳であるためには節度がなければならぬ。一般に思想家の節度といふものが問題である。モンテーニュの最大の智慧は懷疑において節度があるといふことであつた。また實に、節度を知らないやうな懷疑は眞の懷疑ではないであらう。度を越えた懷疑は純粹に懷疑に止まつてゐるのでなく、一つの哲學説としての懷疑論になつてゐるか、それとも懷疑の神祕化、宗教化に陷つてゐるのである。そのいづれももはや懷疑ではなく、一つの獨斷である。

 懷疑は知性の徳として人間精神を淨化する。ちやうど泣くことが生理的に我々の感情を淨化するやうに。しかし懷疑そのものは泣くことに類するよりも笑ふことに類するであらう。笑は動物にはない人間的な表情であるとすれば、懷疑と笑との間に類似が存在するのは自然である。笑も我々の感情を淨化することができる。懷疑家の表情は澁面ばかりではない。知性に固有な快活さを有しない懷疑は眞の懷疑ではないであらう。
 眞の懷疑家はソフィストではなくてソクラテスであつた。ソクラテスは懷疑が無限の探求にほかならぬことを示した。その彼はまた眞の悲劇家は眞の喜劇家であることを示したのである。

 從來の哲學のうち永續的な生命を有するもので何等か懷疑的なところを含まないものがあるであらうか。唯一つの偉大な例外はヘーゲルである。そのヘーゲルの哲學は、歴史の示すやうに、一時は熱狂的な信奉者を作るが、やがて全く顧みられなくなるといふ特質を具へてゐる。この事實のうちに恐らくヘーゲルの哲學の祕密がある。

 論理學者は論理の根柢に直觀があるといふ。ひとは無限に證明してゆくことができぬ、あらゆる論證はもはやそれ自身は論證することのできぬもの、直觀的に確實なものを前提し、それから出立して推論するといはれる。しかし論理の根柢にある直觀的なものがつねに確實なものであるといふ證明は存在するであらうか。もしそれがつねに確實なものであるとすれば、何故にひとはその直觀に止まらないで、なほ論理を必要とするであらうか。確實なものの直觀があるばかりでなく、不確實なものの直觀があるやうに思はれる。直觀をつねに疑ふのは愚かなことであり、直觀をつねに信じるのも至らぬことである。そして普通にいはれる
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