て自己を見出すことである。愛する者は自己において自己を否定して對象において自己を生かすのである。「一にして一切なる神は己自身にも祕密であつた、それ故に神は己を見んがために創造せざるを得なかつた。」神の創造は神の愛であり、神は創造によつて自己自身を見出したのである。ひとは愛において純粹な創造的活動のうちに沒するとき、自己を獨自の或物として即ち自己の個性を見出す。しかしながら愛せんと欲する者にはつねに愛し得ざる歎きがあり、生まんとする者は絶えず生みの惱みを經驗しなければならぬ。彼は彼が純粹な生活に入らうとすればするほど、利己的な工夫や感傷的な戲れやこざかしい技巧がいよいよ多くの誘惑と強要をもつて彼を妨げるのを痛感しなければならない。そこで彼は「われは罪人の首なり」と叫ばざるを得ないのである。私達は惡と誤謬との苦しみに血を流すとき、懺悔と祈りとのために大地に涙するとき、眞に自己自身を知ることができる。怠惰と我執と傲慢とほど、私達を自己の本質の理解から遠ざけるものはない。
自己を知ることはやがて他人を知ることである。私達が私達の魂がみづから達した高さに應じて、私達の周圍に次第に多くの個性を發見してゆく。自己に對して盲目な人の見る世界はただ一樣の灰色である。自己の魂をまたたきせざる眼をもつて凝視し得た人の前には、一切のものが光と色との美しい交錯において擴げられる。恰もすぐれた畫家がアムステルダムのユダヤ街にもつねに繪畫的な美と氣高い威嚴とを見出し、その住民がギリシア人でないことを憂へなかつたやうに、自己の個性の理解に透徹し得た人は最も平凡な人間の間においてさへそれぞれの個性を發見することができるのである。かやうにして私はここでも個性が與へられたものではなくて獲得されねばならぬものであることを知るのである。私はただ愛することによつて他の個性を理解する。分ち選ぶ理智を捨てて抱きかかへる情意によつてそれを知る。場當りの印象や氣紛れな直觀をもつてではなく、辛抱強い愛としなやかな洞察によつてそれを把握するのである。――「なんぢ心を盡し、精神を盡し、思を盡して主なる汝の神を愛すべし、これは大にして第一の誡なり、第二も亦之にひとし、己の如く汝の隣を愛すべし。」
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後記
この書物はその性質上序文を必要としないであらう。ただ簡單にその成立について後記しておけば足り
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