係を含みつつしかも全體の中において占めるならびなき位置によつて個性なのである。しからば私は如何にして全宇宙と無限の關係に立つのであるか。この世に生を享けた、または享けつつある、または享けんとする無數の同胞の中で、時空と因果とに束縛されたものとして私の知り得る人間はまことに少いではないか。この少數の人間についてさへ、彼等のすべてと絶えず交渉することは、私を人間嫌ひにしてしまふであらう、私はむしろ孤獨を求める。しかしながらひとは賑かな巷を避けて薄暗い自分の部屋に歸つたとき眞に孤獨になるのではなく、却つて「ひとは星を眺めるとき最も孤獨である」のである。永遠なものの觀想のうちに自己を失ふとき、私は美しい絶對の孤獨に入ることができる。
しからば私は哲學者が教へたやうに神の豫定調和にあつて他との無限の關係に入つてゐるのであらうか。私は神の意志決定に制約されて全世界と不變の規則的關係に立つてゐるのでもあらうか。しからば私は一つの必然に機械的に從つてゐるのであり、私の價値は私自身にではなく私を超えて普遍的なものに依存してゐるのではないか。私はむしろ自由を求める。そして私がほんとに自由であることができるのは、私が理智の細工や感情の遊戲や欲望の打算を捨てて純粹に創造的になつたときである。かやうな孤獨とかやうな創造とのうちに深く潛み入るとき、詩人が[#ここから横組み]“Voll milden Ernsts, in thatenreicher Stille”[#ここで横組み終わり]と歌つた時間において、私は宇宙と無限の關係に立ち、一切の魂と美しい調和に抱き合ふのではないであらうか。なぜならそのとき私はどのやうな無限のものもその中では與へられない時間的世界を超越して、宇宙の創造の中心に自己の中心を横たへてゐるのであるから。自由な存在即ち一個の文化人としてのみ私は、いはゆる社會の中で活動するにせよしないにせよ、全宇宙と無限の關係に入るのである。かやうにしてまた個性の唯一性はそれが全體の自然の中で占める位置の唯一性に存するのではなく、本質的にはそれが全體の文化の中で課せられてゐる任務の唯一性に基礎附けられるものであることを私は知るのである。
個性を理解しようと欲する者は無限のこころを知らねばならぬ。無限のこころを知らうと思ふ者は愛のこころを知らねばならない。愛とは創造であり、創造とは對象に於
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