、その發展の一つの段階は必然的に次の段階へ移りゆくべき契機をそのうちに含んでゐる。理智の技巧を離れて純粹な學問的思索に耽るとき、感情の放蕩を去つて純粹な藝術的制作に從ふとき、欲望の打算を退けて純粹な道徳的行爲を行ふとき、私はかやうな無限を體驗する。思惟されることができずただ體驗されることができる無限は、つねに價値に充ちたもの即ち永遠なものである。それは意識されるにせよ意識されぬにせよ、規範意識によつて一つの過程から次の過程へ必然的に導かれる限りなき創造的活動である。かやうな必然性はもとより因果律の必然性ではなく、超時間的で個性的な内面的必然性である。
しかしながら私は私が無限を體驗すること即ち眞に純粹になることが極めて稀であることを告白しなければならない。私は多くの場合「ひとはそれを理性と名附けてただあらゆる動物よりも一層動物的になるために用ゐてゐる」とメフィストが嘲つたやうな理性の使用者である。私の感情はたいていの時生産的創造的であることをやめて、怠惰になり横着になつて、媚びと芝居氣に充ちた道樂をしようとする。私の意志は實にしばしば利己的な打算が紡ぐ網の中に捲き込まれてしまふのである。
かやうにして私は、個性が搖籃と共に私に贈られた贈物ではなく、私が戰ひをもつて獲得しなければならない理念であることを知つた。しかし私はこの量り難い寶が自己の外に尋ねらるべきものではなくて、たゞ自己の根源に還つて求めらるべきものであることも知つた。求めるといふことはあるがままの自己に執しつつ他の何物かをそれに附け加へることではない。ひとは自己を滅することによつて却つて自己を獲得する。それ故に私は偉大な宗教家が「われもはや生けるにあらず、キリストわれにおいて生けるなり」といつたとき、彼がキリストになつたのでなく、彼が眞に彼自身になつたのであることを理解する。私の個性は更生によつてのみ私のうちに生れることができるのである。
哲學者は個性が無限な存在であることを次のやうに説明した。個性は宇宙の生ける鏡であつて、一にして一切なる存在である。恰も相集まる直線が作る無限の角が會する單一な中心の如きものである。すべての個別的實體は神が全宇宙についてなした決意を表はしてゐるのであつて、一個の個性は全世界の意味を唯一の仕方で現實化し表現するミクロコスモスである。個性は自己自身のうちに他との無限の關
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