樂そのものが、もしくは享樂が、神の地位を占めるやうになつたのである。今日娯樂の大衆性といふものは概してかくの如きものである。

 生活と娯樂とは區別されながら一つのものである。それらを抽象的に對立させるところから、娯樂についての、また生活についての、種々の間違つた觀念が生じてゐる。
 娯樂が生活になり生活が娯樂にならなければならない。生活と娯樂とが人格的統一に齎されることが必要である。生活を樂しむといふこと、從つて幸福といふものがその際根本の觀念でなければならぬ。
 娯樂が藝術になり、生活が藝術にならなければならない。生活の技術は生活の藝術でなければならぬ。
 娯樂は生活の中にあつて生活のスタイルを作るものである。娯樂は單に消費的、享受的なものでなく、生産的、創造的なものでなければならぬ。單に見ることによつて樂しむのでなく、作ることによつて樂しむことが大切である。

 娯樂は他の仕方における生活として我々の平生使はれてゐない器官や能力を働かせることによつて教養となることができる。この場合もちろん娯樂はただ他の仕方における生活であつて、生活の他のものであるのではない。
 生活の他のものとしての娯樂といふ抽象的な觀念が生じたのは近代技術が人間生活に及ぼした影響に依るものとすれば、この機械技術を支配する技術が必要である。技術を支配する技術といふものが現代文化の根本問題である。

 今日娯樂といはれるものの持つてゐる唯一の意義は生理的なものである。「健全な娯樂」といふ合言葉がそれを示してゐる。だから私は今日娯樂といはれるもののうち體操とスポーツだけは信用することができる。娯樂は衞生である。ただ、それは身體の衞生であるのみでなく、精神の衞生でもなければならぬ。そして身體の衞生が血液の運行を善くすることにある如く、精神の衞生は觀念の運行を善くすることにある。凝結した觀念が今日かくも多いといふことは、娯樂の意義とその方法がほんとに理解されてゐない證據である。

 生活を樂しむ者はリアリストでなければならぬ。しかしそのリアリズムは技術のリアリズムでなければならない。即ち生活の技術の尖端にはつねにイマジネーションがなければならない。あらゆる小さな事柄に至るまで、工夫と發明が必要である。しかも忘れてならないのは、發明は單に手段の發明に止まらないで、目的の發明でもなければならぬといふこと
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