である。第一級の發明は、いはゆる技術においても、新しい技術的手段の發明であると共に新しい技術的目的の發明であつた。眞に生活を樂しむには、生活において發明的であること、とりわけ新しい生活意欲を發明することが大切である。
エピキュリアンといふのは生活の藝術におけるディレッタントである。眞に生活を樂しむ者はディレッタントとは區別される創造的な藝術家である。
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希望について
人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このやうな人生を我々は運命と稱してゐる。もし一切が必然であるなら運命といふものは考へられないであらう。だがもし一切が偶然であるなら運命といふものはまた考へられないであらう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもつてゐる故に、人生は運命なのである。
希望は運命の如きものである。それはいはば運命といふものの符號を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら希望といふものはあり得ないであらう。しかし一切が偶然であるなら希望といふものはまたあり得ないであらう。
人生は運命であるやうに、人生は希望である。運命的な存在である人間にとつて生きてゐることは希望を持つてゐることである。
自分の希望はFといふ女と結婚することである。自分の希望はVといふ町に住むことである。自分の希望はPといふ地位を得ることである。等々。ひとはこのやうに語つてゐる。しかし何故にそれが希望であるのか。それは欲望といふものでないのか。目的といふものでないのか。或ひは期待といふものでないのか。希望は欲望とも、目的とも、期待とも同じではないであらう。自分が彼女に會つたのは運命であつた。自分がこの土地に來たのは運命であつた。自分が今の地位にゐるのは運命であつた。個々の出來事が私にとつて運命であるのは、私の存在が全體として本來運命であるためである。希望についても同じやうに考へることができるであらう。個々の内容のものが希望と考へられるのは、人生が全體として本來希望であるためである。
それは運命だから絶望的だといはれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。
希望を持つことはやがて失望することである、だから失望の苦しみを味ひたくない者は初めから希望を持たないのが宜い、といはれる。しかしながら、失はれる
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