活と對立させられる。生活の分裂から娯樂の觀念が生じた。娯樂を求める現代人は多かれ少かれ二重生活者としてそれを求めてゐる。近代的生活はそのやうに非人間的になつた。生活を苦痛としてのみ感じる人間は生活の他のものとして娯樂を求めるが、その娯樂といふものは同じやうに非人間的であるのほかない。
 娯樂は生活の附加物であるかのやうに考へられるところから、それはまた斷念されても宜いもの、むしろ斷念さるべきものとも考へられるのである。

 祭は他の秩序のもの、より高い秩序のものと結び附いてゐる。しかるに生活と娯樂とは同じ秩序のものであるのに對立させられてゐる。むしろ現代における秩序の思想の喪失がそれらの對立的に見られる根源である。

 他の、より高い秩序から見ると、人生のあらゆる營みは、眞面目な仕事も道樂も、すべて慰戲(divertissement)に過ぎないであらう。パスカルはそのやうに考へた。一度この思想にまで戻つて考へることが、生活と娯樂といふ對立を拂拭するために必要である。娯樂の觀念の根柢にも形而上學がなければならぬ。

 たとへば、自分の專門は娯樂でなく、娯樂といふのは自分の專門以外のものである。畫は畫家にとつては娯樂でなく、會社員にとつては娯樂である。音樂は音樂家にとつては娯樂でなく、タイピストにとつては娯樂である。かやうにしてあらゆる文化について、娯樂的な對し方といふものが出來た。そこに現代の文化の墮落の一つの原因があるといへるであらう。

 現代の教養の缺陷は、教養といふものが娯樂の形式において求められることに基いてゐる。專門は「生活」であつて、教養は專門とは別のものであり、このものは結局娯樂であると思はれてゐるのである。

 專門といふ見地から生活と娯樂が區別されるに從つて、娯樂を專門とする者が生じた。彼にとつてはもちろん娯樂は生活であつて娯樂であることができぬ。そこに純粹な娯樂そのものが作られ、娯樂はいよいよ生活から離れてしまつた。
 娯樂を專門とする者が生じ、純粹な娯樂そのものが作られるに從つて、一般の人々にとつて娯樂は自分がそれを作るのに參加するものでなく、ただ外から見て享樂するものとなつた。彼等が參加してゐるといふのはただ、彼等が他の觀衆とか聽衆の中に加はつてゐるといふ意味である。祭が娯樂の唯一の形式であつた時代に比較して考へると、大衆が、もしくは純粹な娯
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