徳は、阿る者と純眞な人間とをひとめで識別する力である。これは小さいことではない。もし彼がこの徳をもつてゐるなら、彼はあらゆる他の徳をもつてゐると認めても宜いであらう。
「善く隱れる者は善く生きる」といふ言葉には、生活における深い智慧が含まれてゐる。隱れるといふのは僞善でも僞惡でもない、却つて自然のままに生きることである。自然のままに生きることが隱れるといふことであるほど、世の中は虚榮的であるといふことをしつかりと見抜いて生きることである。
現代の道徳的頽廢に特徴的なことは、僞善がその頽廢の普遍的な形式であるといふことである。これは頽廢の新しい形式である。頽廢といふのは普通に形がくづれて行くことであるが、この場合表面の形はまことによく整つてゐる。そしてその形は決して舊いものではなく全く新しいものでさへある。しかもその形の奧には何等の生命もない、形があつても心はその形に支へられてゐるのでなく、虚無である。これが現代の虚無主義の性格である。
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娯樂について
生活を樂しむことを知らねばならぬ。「生活術」といふのはそれ以外のものでない。それは技術であり、徳である。どこまでも物の中にゐてしかも物に對して自律的であるといふことがあらゆる技術の本質である。生活の技術も同樣である。どこまでも生活の中にゐてしかも生活を超えることによつて生活を樂しむといふことは可能になる。
娯樂といふ觀念は恐らく近代的な觀念である。それは機械技術の時代の産物であり、この時代のあらゆる特徴を具へてゐる。娯樂といふものは生活を樂しむことを知らなくなつた人間がその代りに考へ出したものである。それは幸福に對する近代的な代用品である。幸福についてほんとに考へることを知らない近代人は娯樂について考へる。
娯樂といふものは、簡單に定義すると、他の仕方における生活である。この他とは何であるかが問題である。この他とは元來宗教的なものを意味してゐた。從つて人間にとつて娯樂は祭としてのみ可能であつた。
かやうな觀念が失はれたとき、娯樂はただ單に、働いてゐる時間に對する遊んでゐる時間、眞面目な活動に對する享樂的な活動、つまり「生活」とは別の或るものと考へられるやうになつた。樂しみは生活そのもののうちになく、生活の他のもの即ち娯樂のうちにあると考へられる。一つの生活にほかならぬ娯樂が生
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