その壬申よりわが延暦二十年辛巳にいたるまで、一千七百五十歳なり。二には費長房等、魯の春秋によらば、仏、周の第二十の主、匡王班四年壬子にあたりて入滅したまふ。もしこの説によらば、その壬子よりわが延暦二十年辛巳にいたるまで一千四百十歳なり。かるがゆへに今の時のごときはこれ最末の時なり。かの時の行事すでに末法に同ぜり。」と論じている。そして親鸞は第一の説によって現在(元仁元年)を算定していう、「三時教を按ずれば、如来般涅槃の時代をかんがふるに、周の第五の主穆王五十三年壬申にあたれり。その壬申よりわが元仁元年甲申にいたるまで、二千一百八十三歳なり。また賢劫経、仁王経、涅槃経等の説によるに、すでにもて末法にいりて六百八十三歳なり。」仏滅の年については今日においても種々の異説がある。右の年代計算が正確であるか否かは、いま我々にとって重要ではない。正像末史観は親鸞において歴史の単に客観的に見られた時代区分として把握されたのではなく、主体的[#「主体的」に傍点]に把握されたのである。したがって問題は本来どこまでも自己の現在[#「現在」に傍点]であったのである。現在が問題になることからして我々は過去の歴史がいかにあったかを知ろうとする。しかも現在が真に問題になるのは、何を為すべきかが、したがって未来[#「未来」に傍点]が問題になってくることによってである。現在の意識は現在が末法であるという意識である。死を現在に自覚し、いかにこれに処すべきかという自覚が人生の全体を自覚する可能性を与えるごとく、現在は末法であるという自覚が歴史の全体を自覚する可能性を与えるのである。
現在が末法の時であるという意識は親鸞にとって正像末三時の教説によって、単に超越的に与えられたものではない。それは彼の時代の歴史の現実そのものの中から生じたものである。彼の時代は政治的動揺の激しく、戦乱の打ち続いた時代であった。宗教界もまた決して平穏ではなかった。承元の法難には親鸞も連累した。この事件において彼の師法然は土佐に流され、彼自身は越後に流された。いわゆる「闘諍堅固」は彼にとって切実な体験であった。彼の心を何よりも痛めたのは高潔であるべきはずの僧侶の蔽いがたい倫理的頽廃であった。時代の歴史的現実わけても宗教界の状態は、まじめな求道者をしてもはや世は末であるということを感じさせずにはおかなかったであろう。末法思想は鎌倉時代の仏教の著しい特色をなしている。それはこの時代における宗教改革の運動、新宗教の誕生にとって共通の思想的背景となっている。法然や親鸞、日蓮は言うまでもなく、栄西や道元のごときも何らか末法思想をいだいていた。法然上人の反対者であった明恵上人や解脱上人ごときですら末法思想を持っていた。ただ、末法時をいかに見るか、またいかにこれに処すべきかについては、これらの人々の見解は一様ではなかった。
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正像末史観の重心は末法にある。それは末法史観[#「末法史観」に傍点]にほかならない。親鸞の『正像末法和讃』を見るに、その五十八首のことごとくが末法に関係して、正法像法をそれ自身として歌ったものは一つもない。末法は未来に属するのではなく、まさに現在である。この現在の関心において過去の正法時および像法時も初めて関心の中に入ってくるのである。現在がまさに末法時であるというところから浄土[#「浄土」に傍点]は未来に考えられることになる。
彼はどこまでも深く現在[#「現在」に傍点]の現実の自覚の上に立った。いたずらに過去[#「過去」に傍点]の理想的時代を追うことは彼のことではなかった。
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釈迦如来かくれましまして
二千余年になりたまふ
正像の二時はおはりにき
如来の遺弟悲泣せよ
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釈尊はすでに入滅した、現在の我々はもはや釈尊に遺され捨てられてしまったのであると彼は嘆き悲しむのである。いたずらに過去を追うべきではない。またいたずらに未来[#「未来」に傍点]を憧れるべきではない。遠い未来に出現すべしと伝えられた弥勒に頼ることもやめねばならぬ。
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五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし
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現在のこの現実が問題である。釈迦はすでに死し、弥勒はいまだ現われない。今の時はいわば無仏の時である。過去の理想も未来の理想も現在において自証されないかぎり意味を有しない。現在の現実の自覚における唯一の真実は現在がまさに末法の時であるということである。
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時代の歴史的現実の深い体験は親鸞に自己の現在が救い難い悪世であることを意識させた。しかも彼のこの体験を最もよく説明してくれるものは正像末の歴史観である。正像末三時の教説は歴史の現在の現実においてその真理性の証明を与えられている。この歴史観は歴史の過程をいかに描いているか。『末法燈明記』には次のごとく記してある。「問ふ、もししからば、千五百年のうちの行事いかんぞや。答ふ、大術経によるに、仏涅槃ののち、はじめの五百年には、大迦葉らの七賢聖僧、次第に正法をたもちて滅せず、五百年ののち、正法滅尽せんと。六百年にいたりて、九十五種の外道きほひおこらん。馬鳴、世にいでて、もろもろの外道を伏せん。七百年のうちに、竜樹、世にいでて、邪見の幢《はた》をくだかん。八百年において、比丘縦逸にして、わづかに一二、道果をうるものあらん。九百年にいたりて、奴を比丘とし、婢を尼とせん。一千年のうちに、不浄観を聞〔欄外「開?」〕かん、瞋恚《しんい》して欲せじ。千一百年に、僧尼嫁娶せん、僧|毘尼《びに》を毀謗《きぼう》せん。千二百年に、諸僧尼らともに子息あらん。千三百年に、袈裟変じて白からん。千四百年に、四部の弟子みな猟師のごとし、三宝物を売らん。ここにいはく、千五百年に拘※[#「目+炎」、408−上−9]弥《コーシャンビー》国にふたりの僧ありてたがひに是非を起してつゐに相殺害せん。よりて教法竜宮におさまる。涅槃の十八および仁王らにまたこの文あり。これらの経文に准ずるに、千五百年ののち戒定慧あることなし。」諸種の経文は、釈迦の死後、やがて正法が滅び、戒を持する者がなくなるであろうと言っている。かくて「たとへば猟師の身に法衣をきるがごとし」といい、あるいは「妻を蓄へ子を挾む」といい、またあるいは「おのれが手に児のひぢをひき、しかもともに遊行して酒家より酒家にいたらん。」といっている。これらの言葉において親鸞は彼の時代、その宗教界の現実に合わせて、これに対する厳しい批判を認めざるを得なかった。経典の言葉は末法時を告げて予言的な真理性を有している。彼は自己の体験を顧みて、この真理性に驚き、かつこの真理性を畏《おそ》れずにはいられなかったであろう。正直に現実を見るとき、「たとひ末法のなかに持戒のものあらば、すでにこれ怪異なり。市に虎あらんがごとし。これたれか信ずべきや。」といわざるを得ないであろう。
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正法五百年は大迦葉らの七賢僧の時代であり、それは小乗教の時代である。馬鳴および竜樹によって代表される次の像法時代は大乗教特に自力教の時代である。八百年以後の記述に大乗教が次第に衰えて、やがて末法の時代に至ることを述べている。
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もとより親鸞は末法の教説において時代に対する単に客観的な批判を見出したのではない。彼は決して単なる理論家、傍観者ではなかった。末法思想は彼においてあくまでも主体的に把握された。歴史を単に客観的に見てゆくことからは、そもそも末法思想のごときものは生まれないであろう。ただ客観的に見てゆけば、歴史における進歩といい退歩といっても、要するに相対的であり、進歩と退歩とは単に程度上のことで、進歩の反面には退歩があり、また退歩の反面には進歩があるということができる。末法思想は死の思想のごときものである。それは歴史に関する死の思想である。死は主体的に捉えられるとき初めてその問題性を残りなく現わすごとく、末法思想も主体的に捉えられるとき初めてその固有の性格を顕わにするのである。正像末の歴史観は親鸞にとって客観的な歴史叙述の基礎として取り上げられたのではない。「釈迦如来かくれましまして、二千余年になりたまふ 正像の二時はおはりにき 如来の遺弟悲泣せよ。」と親鸞は『正像末和讃』にいっている。単なる批判ではなくて悲泣[#「悲泣」に傍点]である。救い難い[#「救い難い」に傍点]現実が身にしみて歎き悲しまれるのである。
次に親鸞にとって正像末の教説は、単に時代に対する批判であるのみではなく、むしろ何よりも自己自身に対する厳しい批判を意味した。批判されているのは自己の外部、自己の周囲ではなく、かえって自己自身である。「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし。」と彼はかなしみなげくのである。自己を「底下の凡愚」と自覚した彼は十六首からなる『愚禿悲歎述懐』を作ったが、我々はこれが『正像末和讃』の一部分であることに注意しなければならぬ。すなわち彼は時代において自己を自覚し、自己において時代を自覚したのである。
ところで自己を時代において自覚するということは、自己の罪を時代の責任に転嫁することによって自己の罪を弁解することではない。時代はまさに末法である。このことはまた時代の悪に対する弁解ではない。時代を末法として把握することは、歴史的現象を教法の根拠から理解することであり、そしてこのことは時代の悪を超越的な根拠から理解することであり、そしてこのことは時代の悪をいよいよ深く自覚することである。かくてまた自己を時代において自覚することは、自己の罪を末法の教説から、したがってまたその超越的根拠から理解することであり、かくして自己の罪をいよいよ深く自覚することである。いかにしても罪の離れ難いことを考えれば考えるほど、その罪が決してかりそめのものでなく、何か超越的な根拠を有することを思わずにはいられない。この超越的根拠を示すものが末法の思想である。
諸種の経文は末世においては正法が滅んで戒を持するものがないことを述べている。すでに正法が滅び、戒法がなくなっている以上、この時代にはもはや「破戒」ということすらない。なぜなら戒法があって破戒ということがあるのであって、破るべき戒法がなければ破戒のあろうはずはないのである。したがってこの時代の特徴は破戒ではなく、まして持戒ではなく、かえって「無戒」である。『末法燈明記』には次のごとくいわれている。「しかればすなはち末法のなかにおいては、ただ言教のみありて、しかも行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破るによりてか、しかも破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持戒をや。かるがゆへに大集にいはく、仏涅槃ののち無戒くににみたんと。」像法の季、末法の時代は無戒の時代である、持戒の比丘はなくなり、いわゆる無戒名字の比丘、すなわち鬚を除《さ》り髪を剃って身に袈裟を着けてはいるが戒を持することのない名ばかりの僧侶になる。僧侶であって肉食妻帯するものが現われるであろう。しかしこれを単純に破戒と見て非難攻撃することは時代のいかなるものであるかを知らないものである。破戒と無戒とは同じでないことを考えなければならぬ。
一方無戒は破戒以下である。破戒者は戒法の存在することを知っており、戒法の畏敬すべきことを知っておりさえするであろう。かくして彼は時には懺悔することもあるであろう。しかるに無戒者は戒法の存在すら意識しない。彼は平然として無慚無愧《むざんむき》の生活をしている。無戒者は無自覚者である。「非僧非俗」と称した親鸞は自己の身において無戒名字の比丘《びく》を見た。そして非僧非俗の親鸞はみずから「愚禿」と名乗ったのである。彼は「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、低下の最澄」といった伝教大師の言葉に深い共鳴を感じた。無戒は破戒以下である。このことがまず自覚
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