いる。かくして彼が非僧非俗破戒の親鸞と称したことは、彼の信仰の深い体験に基づくのであって、単に謙遜のごときものではない。それは人間性の深い自覚を打ち割って示したものである。
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賢者の信をききて、愚禿が心をあらはす。
賢者の信は、内に賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。
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と『愚禿鈔』に記している。外には悟りすましたように見えても、内には煩悩の絶えることがない。それが人間なのである。すべては無常と感じつつも、これに執着して尽きることがない。それが人間なのである。弥陀の本願はかかる罪深き人間の救済であることを聞信している。しかも現実の人間はいかなるものであるか。
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「まことに知んぬ、かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまざることを、はづべし、いたむべし。」
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 罪悪の意識はいかなる意味を有するか。機の自覚を意味するのである。機とは何であるか。機とは自覚された人間存在である。かかる自覚的存在を実存と呼ぶならば、機とは人間の実存にほかならない。自覚とは単にわれがわれを知るということではない。われはいかにしてわれを知ることができるか。われがわれを知るというとき、われはわれを全体として知ることがない。なぜなら、われがわれを知るという場合、知るわれと知られるわれとの分裂がなければならず、かように分裂したわれは、その知られるわれとして全体的でなくかえって部分的でなければならぬ。したがってその場合、自覚的なわれよりもむしろ主客未分の、したがって無意識的な、無自覚的なわれが、したがって知的な、人間的なわれよりも、実践的な、動物的なわれがかえって全体的なわれであるともいい得るであろう。

 機という字は普通に天台大師の『法華玄義』に記すところにしたがって、微・関・宜の三つの意味を有するとされている。それはまず第一に機微という熟字に見られるごとく微の意味を有する。弩《いしゆみ》に発すべき機がある故に、射る者これを発すれば直ちに箭《や》が動く。未だ発現しないで可能性としてかすかに存するすがたが微であり、機である。可能的なものはいまだ顕わではなく含蓄的に微《かす》かに存するのである。しかし可能的なものがひとりでに現実的になるのではない。弩が機発するのは射る者があってこれを発するからである。〔欄外「弩に可発の機がなければ、いかにこれを発しようとしても発し得ないであろう。衆生《しゅじょう》にまさに生ぜんとする善がある故に仏が来たりて応ずればすなわち善生ず。応は赴の義。」〕しかしこの可能性は単に静的に含蓄的であるということではない。機は動の微、きざしである。まさに動こうとして、まさに生ぜんとして、機である。〔欄外「教法化益によりて発生さるべき可能性あるもの。」〕第二に、機は機関という熟字に見られるごとく関の意味を有する。関とは関わる、関係するということであって、一と他とが相対して相関わり、相関係することである。衆生に善あり悪あり、共に仏の慈悲に関する故に、機は関の意味を有するのであり、すなわち教法化益に関係し得るもの、その対者たり得るものの意である。もし衆生がなければ、仏の慈悲も用いるに由なく、衆生ありてまさに慈悲の徳も活くことができる。応は対の義。一人は売ろうとし、一人は買おうとし、二人相対して貿易のことがととのうごとく、〔欄外「主客相合うて売買が成立つ。」〕衆生は稟《う》けようとし、仏は与えようとし、相会うところで摂化済度のことが成るのである。これが食い違うと摂化のことはととのわない。〔欄外「須宜」〕そこで第三に機は機宜という熟字に見られるごとく、宜の意味を有している。関係するものの間にちょうど相応した関係があることをいう。例えば函と蓋とが、方なれば方、円ければ円、恰好相応して少しもくいちがいのないように、無明の苦を抜かんと欲せば、正しく悲に宜しく、法性《さとり》の楽を与えんと欲せば、正しく慈に宜し。衆生に苦あり、あたかも仏の抜苦の悲に宜しく、衆生に楽なし、あたかも仏の与楽の慈に宜しく、仏の慈悲はよく衆生に相応しているのである。機は教法化益を施すに便宜あるものの意。かくして機と教、機と法とは相対する、両者の関係は動的歴史的。
 その機は何らかの根性を有する故に根機と称せられる。いっさいの衆生、過去・現在の因縁宿習を異にし、その面貌の異なるごとく、その根性別なり、〔欄外「善悪智愚の別」〕したがって教法をこうむるべき機として千差万別なり、しかるに教法化益もし機に乖《そむ》けば、その益あることなし、故に仏は千差の方便を尽し、万別の教法を施せり。性得の機。機は可発の義で、衆生の心に法をうくべききざしあること。
 時機――機の歴史性、
『大無量寿経』は「時機純熟の真教」なり。末代に生まれた機根の衰えた衆生にとってまことにふさわしい教えである。時機相応。聖道自力の教えは機に合わずして教果を収めることができぬ。浄土他力の一法のみ時節と機根に適している。
 機と性との区別 動的と静的。

○時機相応
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「まことに知んぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、またく像末法滅の時機にあらず、すでに時をうしなひ、機にそむけるなり、浄土真宗は在世正法、像末法滅、濁悪の群萌、ひとしく悲引したまふをや。」
「もし機と教と時とそむけば、修しがたく、入りがたし。」『安楽集』による。
「当今は末法にし、これ五濁悪世たり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり。」『安楽集』による。
「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。」
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○悪人正機
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「これも悪凡夫を本として善凡夫を傍に兼ねたり。かるが故に傍機たる善凡夫なを往生せば、まはら正機たる悪凡夫いかでか往生せざらん。しかれば善人なをもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべしとおほせごとありき。」『口伝鈔』第十九章。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。」『歎異鈔』三章。
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  二 歴史の自覚

 人間性の自覚は親鸞において歴史の自覚と密接に結びついている。彼の歴史的自覚はいわゆる末法[#「末法」に傍点]思想を基礎としている。末法思想は言うまでもなく仏教の歴史観である正像末三時の思想に属している。我々はまずこの歴史観がいかなるものであるかを見よう。
 正像末三時の思想は、仏滅後の歴史を正法、像法、末法の三つの時代に区分する歴史観である。この三時の際限に関しては、末法は正像の後一万年とすることは諸説の一致するところであるが、正像の二時については、あるいは正法五百年像法千年といい、あるいは正法千年像法五百年といい、あるいは正法五百年像法五百年といい、あるいは正法千年像法千年といって、一定しないが、親鸞は正法五百年像法一千年末法一万年の説を採った。『教行信証』化身土巻には道綽の『安楽集』を引いて次のごとく記されている。「経の住滅を弁ぜば、いはく釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には衆生減じつき、諸経ことごとく滅せん。如来、痛焼の衆生を悲哀して、ことにこの経をとどめて、止住せんこと百年ならん。」ここでは経に就《つ》き、三時を通じて残るものと滅びるものとが弁別される。末法一万年において、諸経ことごとく滅びるであろうが、かかる法滅の後においても、特にこの経、すなわち『大無量寿経』は、この世に留まること百歳、かくてまた無量歳に至るであろう。経は教を伝えるものである。正像末の三時はまさに教と行と証とに関して区分されているのである。この歴史観はもと時を隔てるにつれて釈迦如来の感化力が次第に衰えてゆくことを示すものであろうが、この過程は教行証の三法を原理とする時代区分として理論化された。仏滅後の初めの時代には教と行と証とがともに存在する。教法は世にあり、教をうける者はよく修行し、修行するものはよく証果を得る。これを正法と名づける。正とはなお証のごとしといわれ、証があるということが第一の時代の特色である。次に像法というのは、像とは似なりといわれ、この時代には教があり、行があって、正法の時に似ている。教法は世にとどまり、教をうける者は能く修行するが、しかし多くは証果を得ることができない。教行は存するが、証は存しない。これを像法と名づける。第三の末法の時においては、教法は世に垂れ、教をうける者が存しても、よく修行することができず、証果を得ることができない。ただ教のみあって、行も証もともになくなる。末とは微なりといわれ、教があってもないごとくであるから、末法と称せられるのである。これら三時を過ぎて教法すらない時期は「法滅」と呼ばれている。かくのごとく正像末の思想は教行証の三法を根拠として時代の推移を考える歴史観であることが知られる。
 ところで親鸞は『教行信証』の同じ箇所でまた『安楽集』によって、仏滅後の時代を五百年ずつに区分する『大集月蔵経』の説を採り上げている。「大集月蔵経にのたまはく、仏滅度ののちの第一の五百年には、わがもろもろの弟子、慧を学すること堅固なることをえん。第二の五百年には、定を学すること堅固なることをえん。第三の五百年には、多聞読誦を学すること堅固なることをえん。第四の五百年には、塔寺を造立し、福を修し、懺悔すること堅固なることをえん。第五の五百年には、白法隠滞して、おほく諍訟あらん。すこしき善法ありて堅固なることをえん、と。」わが伝教大師の作と考えられた『末法燈明記』もこの説を採っており、『教信行証』に引用されているところである。ここでは、最初の五百年は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固、次の五百年は多聞堅固、次の五百年は造寺堅固、後の五百年は闘諍堅固にして白法隠没するの時として、特色づけられる。すなわち、初めの三期の五百年は、次第して、戒と定と慧の三学が堅固にとどまる時であり、なかに第一の五百年は正法、次の二期の五百年は像法一千年に当たり、これら三期の五百年の後には戒定慧は存しなくなる。第四の造寺堅固の五百年以下は末法に属し、中でも第五の五百年の闘諍堅固というのは、多くの人々がたたかい、あらそい、堅くこれを執って捨てることなく、あらそいやたたかいが盛んなことを意味するのである。
 ところで正像末史観の有する意義は、『安楽集』の著者にとっても、『末法燈明記』の著者にとっても、この史観、この教、すなわち三時教を根拠として、自己の属する時代、この現在[#「現在」に傍点]がいかなるものであるかを、いな、この現在がまさに末法[#「末法」に傍点]に属することを理解するに存した。かくて道綽は、右に記したごとく五期の五百年を区分した後、「今の時の衆生をはかるに、すなはち仏、世を去りてのちの第四の五百年にあたれり」といって、その時代がまさに末法に入っていることを記している。また『末法燈明記』の著者は、正法五百年像法一千年の後は末法に属すると述べた後、「問ふ、もししからば今の世はまさしくいづれの時にかあたれるや。答ふ、滅後の年代おほくの説ありといへども、しばらく両説をあぐ。一には法上師等、周異記によりていはく、仏、第五の主、穆王満五十三年壬申にあたりて入滅したまふ。もしこの説によらば、
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