自己が何ら背徳の行為のないことを考えて満足しているであろう。この自己満足は、しかるに、真に往生をおもう心がないことから来ている。それはあさはかな現実肯定にもとづいている。そこに超越的なものない。そしてこれは現実についての認識の不足にもとづいている。これに対して、外からは一点非の打ちどころのないように見える生活をしながら、しかも絶えず不安に襲われ、絶望せざるを得ないのは、浄土往生のねがいの切なることによるのである。したがって修諸功徳の願は、自力の観念を放棄せしめんがためのものである。自己の無力に対する自覚は往生浄土のねがいが真面目であればあるほど強い。それ故に真実なるものはこのねがいのみである。それ故に親鸞は第十九願を「至心発願の願となづくべきなり」というのである。この願の真意はまさにここに存するというべきである。第十九願の趣旨が至心発願にあるかぎり、これは究極的なものでなくなり、次のより高い段階に廻入せざるを得ない。

 自分の行なう善によって往生を求めて絶望した者はいかにすべきであるか。ここに弥陀は手をさしのべ給う、「すでにして悲願います、植諸徳本の願となづく。」ここに願がある。第二
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