は次元を異にしている。親鸞は右の文において自己のたどりついた信仰の立場から、自己の経験してきた内面的生活を回顧してその歴史を叙述した。この回顧[#「回顧」に傍点]すなわち歴史叙述は、信仰の最も高い立場からより低い立場に対する反省であり、したがって同時にこれに対する批判[#「批判」に傍点]である。しかしこの批判は単なる否定ではなくて同時に摂取であることが明らかになるであろう。そして回顧として歴史的であり、批判として論理的である。現実の歴史は本願の法理において客観性[#「客観性」に傍点]、単なる年代記的歴史以上の客観性を与えられ、本願の法理は歴史のなかにおいて、単なる論理を超えた現実性[#「現実性」に傍点]を示されたのである。かかる客観性の故に自己の歴史は告白するに値するのであって、いわゆる三願転入の自督は感傷とは全く性質を異にしている。またかかる現実性の故に本願の法理は仰信せらるべきものであるのである。
さて三願とは何をいうのであるか。右の文によれば「万行諸善の仮門」、これが第一の段階である。これは『大無量寿経』における第十九願に当る。その文にいう、
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「たとひわ
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