に方便の真門をいでて」というその「今」が親鸞の生涯のいかなる年代に当るかが問題になるであろう。しかるにこれについては種々の異説がある。ある者はこの今、すなわち親鸞が「選択の願海に転入」した時をもって、彼が二十九歳で法然を師として吉水に入室した時であるとし、ある者は吉水入室以後にあるとし、ある者はそれ以前にあるとし、ある者は『教行信証』製作の当時にあるとする。しかしこの種の解釈にはいずれも無理があるところから、右のいわゆる三願転入の文を、歴史的事実とは関係なく純粋に法理的[#「法理的」に傍点]に解釈しようとする者がある。言い換えれば、右の三願転入の文を純粋に論理的に理解しようとするのである。
 三願転入に深い論理があること、それに永遠なる法理があることは、我々もまたやがて明らかにしようとするところである。しかしながらその故をもって、これを純粋に法理的に解釈することは誤りである。この文は率直に受取る者にとっては疑いもなく親鸞の宗教的生の歴程を記したものであり、歴史的事実の告白である。弥陀の本願は単なる理、抽象的な真理ではない。それは生ける真理として自己を証しするのである。この証しは、この真
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