に過ぎぬのではない。人において法が見られると同時に法において人が見られるのである。なぜならこの法は人間の実存にかかわり、各人の救済が問題であるからである。右に引いた歎異鈔の文がこれを明らかにしている。法と人とは二つであって二つではない。親鸞にとって伝統は単に客観的なものでなく、これを深く自己のうちに体験し証すべきものであった。相承は己証と結びついて区別することができぬ。これによって彼はおのずから伝統のうちに新しいものを作り出し、みずから一宗の祖として新しい出発点となったのである。
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もとよりこの伝統の中心をなすものは弥陀である。しかもこの弥陀の本願の教えをこの世に示したのは釈迦であり、そこに釈迦出世の歴史的意義がある。釈迦なしには伝統はなく、弥陀なしには伝統はない。したがって本典および略書の両偈がまず弥陀および釈迦について述べ、ついで七高僧について述べているのは当然である。ここに人と法とは二つでない。
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○七祖出現の使命は要するに
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「インド西天の論家、中夏、日域の高僧、大聖興世の正意をあらはし、如来の本誓、機に応ぜ
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