。しかしかような永遠性は非歴史的ではない。この教は特に末法時代に相応する教である。すなわち末法時代においては、聖道の教が「時を失ひ機に乖く」のに反して、浄土門の教はまさにこの時代においてこそ「時機純熟の真教」なのである。かくして一面において特殊的に末法の時代に相応すると同時に他面において普遍的にあらゆる時代に通ずるというところに、この教の真に具体的な絶対性が見られるのである。特殊的であると同時に普遍的であり、時間的であると同時に超時間的であるところに、真の絶対性があるのである。
 しかるに第三に、この教のかかる絶対性、すなわち歴史を離れるのではなくかえって歴史の中において歴史を貫く絶対性は、その伝統性において認められる。親鸞はこの伝統をインドの竜樹、天親、支那の曇鸞、道綽、善導、日本の源信、源空の七人の祖師において見た。彼は「高僧和讃」を作ってこれら七祖を讃詠したのである。釈迦の出世の本懐の教である弥陀の本願の教は処と時とを隔てたこれらの高僧によって次第に開顕されてきたのである。この伝統はこの法の絶対性を示すものである。親鸞はこの伝統の中に自己の生命を投げ込んだ。彼は一宗の開祖となった
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