に自己の教えの典拠を明らかにするために挙げられたのではなく、むしろ自己の思想と体験とを表現するために借りてこられたのであるとすれば、その引文の読み方、文字の加減などが原典の意味に拘泥《こうでい》することなく、親鸞独自のものを示しているのは当然のことであろう。『教行信証』は思索と体験とが渾然として一体をなした稀有の書である。それはその根柢に深く抒情を湛えた芸術作品でさえある。実に親鸞のどの著述に接しても我々をまず打つものはその抒情の不思議な魅力であり、そしてこれは彼の豊かな体験の深みから溢れ出たものにほかならない。
かようにしてしばしばなされるように、彼の教えを体験の宗教として特色づけることは正しいであろう。しかしその意味は厳密に規定されることが必要である。宗教を単に体験と解することは宗教から本質的に宗教的なものを除いて「美的なもの」にしてしまう危険を有している。実際、親鸞の教えにおいて体験の意義を強調することからそれを単に「美的なもの」にしてしまっている例は決してすくなくはないのである。親鸞はすぐれて宗教的人間であった、彼の体験もまたもとより本質的に宗教的である、ところで宗教的体験の
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