、生きた真に現実的な自己ではない。十方衆生はそれ自身としては類概念である。宗教的真理は実存的真理、言い換えると、生ける、この現実の自己を救う真理でなければならぬ。親鸞が求めた教法はまさにかくのごとき実存的真理であったのである。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」と『歎異鈔』にいわれている。彼は教を単にその普遍性において見たのではない――それは単に理論的な態度に過ぎない――彼はこれを絶えず自己の身にあてて考えたのである。『教行信証』において種々の経論を引いて諄々として教法を説き去り説き来る親鸞は、諸所において突如として転換していわゆる自督[#「自督」に傍点]の文を記している。この劇的な転換の意味は重要である。この自督の文は電撃のごとく我々の心を打つ。今や彼は自己にかえって客観的普遍的な教法を自己自身の身にあてて考えるのである。自督とは自己の領解するところをいう。教法の真理性は自己において自証されるのでなければならぬ。教は誰のためでもない、自己一人のためである。かくして「十方の衆生」のための教は実は「親鸞一人」のための教である。普遍性は特殊性に転換する。かかる転換をなしおわることによって普遍性もまた真の普遍性になるのである。今や特殊性に転換した普遍性は現実的に普遍性を獲得してゆく。教をみずから信じた自己は人を教えて信じさせる。いわゆる自信教人信の過程において十方衆生の普遍性が実現されてゆく。このとき十方衆生はもはや類概念のごとき抽象的な普遍ではなく、自己のうちに特殊性をそのままに含む具体的な普遍となる。それは同朋同行によって地上に建設されてゆく仏国にほかならない。
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『末燈鈔』に収められた慶信の師親鸞への消息の中には、「摂取不捨も信も念仏も、人のためとおぼえられず候」とある。
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「我が歳きはまりて安養浄土に還帰すといふとも、和歌の浦曲の片雄波よせかけよせかけ帰らんに同じ。一人居て喜ばば二人と思ふべし。二人居て喜ばば三人と思ふべし。その一人は親鸞なり。
 われなくも法は尽きまじ和歌の浦
   あをくさ人のあらんかぎりは。」
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といわゆる『御臨末御書』の中には親鸞の遺言として伝えられている。「親鸞一人」のためのものと思われた救済の教は、救済の
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