尊を超越した教である。親鸞は真実の教である『大無量寿経』について、「如来の本願をとくを経の宗致とす。すなはち仏の名号をもて経の体とするなり。」といっている。弥陀如来の本願や名号は釈尊を超越するものである。真に超越的なものとしての言葉は釈尊の言葉ではなくて名号である。名号は最も純なる言葉、いわば言葉の言葉である。この言葉こそ真に超越的なものである。念仏は言葉、称名でなければならぬ。これによって念仏は如来から授けられたものであることを証し、その超越性を顕わすのである。本願と名号とは一つのものである。経は本願を説くことを宗致とし、仏の名号を体とする故をもって真に超越的な言葉であるのである。かくのごとき教として『大無量寿経』は真実の教である。
 しかしこの超越的真理は単に超越的なものとしてとどまる限り真実の教であり得ない。真理は現実の中において現実的に働くものとして真理なのである。宗教的真理は、哲学者のいうがごとき、あらゆる現実を超越してそれ自身のうちに安らう普遍妥当性のごときものであることができぬ。それはそれ自身のうちに現実への関係を含まなければならぬ。弥陀の本願はかくのごとき現実への関係において普遍性を含んでいる。それは「十方衆生」の普遍性である。すなわち第十八、十九、二十の三つの重要な願はいずれも「十方衆生」という語を含んでいる。十方衆生という現実の普遍性への関係は、本願において、後天的に付け加わってくるのではなく、かえってもともと本願のうちに内在するのである。したがって本願の普遍性は単に経験的普遍性ではなく、先天的な超越的な普遍性である。普遍性は真理の基本的な徴表であるが、単に経験的な普遍性は真の普遍性であることができぬ。しかしまた単に超越的な普遍性は現実との関係を欠いて真の普遍性の意義を有しない。本願の普遍性はかくのごとき抽象的な普遍性ではなく、十方衆生の普遍性をそれ自身のうちに含んで、現実的普遍性への傾動をそれ自身のうちに含んでいる。
 しかしながら十方衆生の普遍性もなお抽象的である。宗教においてはどこまでも自己が救われるということが問題である。理論の幽玄も論理の透徹も、その教法が自己を救うものであるか否かという切実な問の前には、何らの権威も有しない。自己は十方衆生のうちに含まれると考えられる。しかし単にかく考えられる自己は類概念のひとつの例としての自己に過ぎず
前へ 次へ
全39ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング