ものである。彼が明らかにした真実の教と行と信と証とがいかなるものであり、また相互にいかなる関係にあるかについては、私の研究の全体を通じて次第に述べられるであろう。ここではまず一般に真実というものが何を意味するかについて、その一般的性格を論じておかねばならぬ。
 宗教は真実でなければならない。それは単なる空想であったり迷信であったりしてはならぬ。宗教においても、科学や哲学においてと同じく、真理が問題である。ただ宗教的真理は科学的真理や哲学的真理とその性質、その次元を異にするのである。もとより宗教の真理も真理として客観的でなければならぬ、客観性はあらゆる真理の基本的な徴表である。親鸞の宗教はしばしば体験[#「体験」に傍点]の宗教と称せられている。かく見ることはある意味においては正しい。宗教的体験の本質は内面性[#「内面性」に傍点]であり、親鸞の宗教は仏教のうち恐らく最も内面的であることを特徴としている。しかし体験はそれ自身としては主観的なもの、心理的なものを意味している。したがって体験の宗教ということは主観主義、心理主義に陥ることになり、宗教は真理であるという根本的な認識を失わせることになり易いのである。真理は決して単に体験的なもの、心理的なもの、主観的なものであり得ない。もとより宗教的真理の客観性は物理的客観性ではない。その客観性は経[#「経」に傍点]において与えられている。経は仏説の言葉である。信仰というものは単に主観的なもの、心理的なものではなく、経の言葉[#「言葉」に傍点]という超越的なもの[#「超越的なもの」に傍点]に関係している。「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり。」と親鸞はいっている。経は釈尊の説いた言葉であり、その真実性は釈尊の自証に基づくのである。しかし釈尊は歴史的人物であるとすれば、その言葉はいかにして真の客観性、真の超越性を有するであろうか。釈尊の自証といっても、それはいかにして真の客観性、真の超越性を有するであろうか。仏教における聖道門は釈尊を理想とする。それは釈尊によって自証された法を自己自身において自証しようと努力する。経の言葉とはそれ自身として絶対性を有しない。かくしてそれは宗教であるよりも道徳ないし哲学であることに傾くのである。聖道門は釈尊を理想とする自力自証の宗教として、そこに真の超越性は存しない。しかるに浄土門は釈
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