自己が何ら背徳の行為のないことを考えて満足しているであろう。この自己満足は、しかるに、真に往生をおもう心がないことから来ている。それはあさはかな現実肯定にもとづいている。そこに超越的なものない。そしてこれは現実についての認識の不足にもとづいている。これに対して、外からは一点非の打ちどころのないように見える生活をしながら、しかも絶えず不安に襲われ、絶望せざるを得ないのは、浄土往生のねがいの切なることによるのである。したがって修諸功徳の願は、自力の観念を放棄せしめんがためのものである。自己の無力に対する自覚は往生浄土のねがいが真面目であればあるほど強い。それ故に真実なるものはこのねがいのみである。それ故に親鸞は第十九願を「至心発願の願となづくべきなり」というのである。この願の真意はまさにここに存するというべきである。第十九願の趣旨が至心発願にあるかぎり、これは究極的なものでなくなり、次のより高い段階に廻入せざるを得ない。
自分の行なう善によって往生を求めて絶望した者はいかにすべきであるか。ここに弥陀は手をさしのべ給う、「すでにして悲願います、植諸徳本の願となづく。」ここに願がある。第二十願がそれである。いわく、
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「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、わが名号をききて、念をわが国にかけて、もろもろの徳本を植ゑて、心を至し廻向して、わが国に生ぜんとおもはん、果遂せずば、正覚をとらじ。」(一四〇二)
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先の三願転入の文において「善本徳本の真門に廻入し」とあるのは、この願に相応する。この願の文に従って、それは「係念定生の願」とも「不果遂者の願」ともなづけられる。
四 宗教的真理
親鸞がこころをつくして求めたのは「真実」であった。彼の著作を繙《ひもと》く者はいたるところにおいてこの注目すべき言葉に出会う。『教行信証』という外題で知られる彼の主著の内題は『顕浄土真実教行証文類』と掲げられている。そしてその前四巻は「顕浄土真実教文類」「顕浄土真実行文類」「顕浄土真実信文類」「顕浄土真実証文類」というように、一々真実という言葉が付けられている。すなわち真実の教、真実の行、真実の信、真実の証を顕わすことが彼の生涯の活動の目的であった。まことに真実という言葉は親鸞の人間、彼の体験、彼の思想の態度、その内容と方法を最もよく現わす
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